自然死か不審死か
現実に戻ると、回想に耽っていたエリカを置き去りに、ウィルが警官に向かって気色ばっていた。
「事件性がないなら指紋押捺の必要はないでしょう? お隣の郵便、よくうちに紛れ込むんですよ。それで妻が受け取って、お隣の郵便受けに入れただけです」
女性巡査部長はあくまでクールで動じない。
「1割、2割はまだ、不審死の可能性がありますから」
「紙の封筒に指紋が付きますか?」
「湿っていたのでしょう。泥水のような跡がかなりハッキリと残っていたので照合したいのです。これら3通の封書が、オキーフさんが倒れられた周囲に散らばっていました。郵便のせいで体調を崩されたかもしれませんから」
「脅迫状だったとでも?」
「そんなことは申し上げておりません。下手なことを仰ると後で困ることになりますよ? 今はまだ、事実確認ですが、もしも『捜査』が必要になったら、『捜査かく乱罪』にも問えます」
「内容に問題がなければ、封筒の指紋なんて調べないでしょう? そんなことしたら、郵便屋みんな容疑者だ」
「配達員の指紋は確認済みです」
普段温厚なウィルがなぜ警官に突っかかるのか、エリカは不思議だった。今や、パスポートだってスマホのロック解除だって指紋情報を使っている。
「本当に、間違ってうちに来たお隣の郵便を届けただけですから、指紋が必要ならどうぞ、照合してください」
エリカの作り笑顔を合図にしてか、巡査部長はタブレットのようなものを取り出す。
男性警官は、ウィルにお隣の目撃情報を問い質した。
「ご主人はいかがですか? 最後にオキーフさんを見かけたのは?」
夫は何とか機嫌を直して相対する。
「僕は在宅で働いているので、曜日、日時が曖昧で……。最後にお見かけしたのは庭でです。多分、一昨日だったと……」
「オキーフさんが自宅の庭に居られたんですね?」
「はい、しゃがみこんで、除草でもしてるんだと思いました」
「貴方はそれをどこから目撃したんですか?」
女性警官は相変わらず言い回しが冷たい。
「あ、2階からです。バスルームの窓から」
「?!」
エリカは驚いてびくりとしてしまい俯いた。
――――トイレに立っただけなら、うちのバスルームの窓からお隣の庭は見えない。トイレと窓の間に、寝そべって入る湯船が長々と伸びている。窓は曇りガラスだし、湯船に足を入れて窓を開けないと。
しかし、警官2人からのツッコミはなかった。
エリカは夫の不審な発言への動揺を隠し、警官たちに差し出された小型端末に、言われるがまま両手指の腹を一つずつ押し当てた。
ウィルは何か隠している、もしくは知っているらしいと思いながら。
ー◇ー
翌日曜日、今日こそはのんびりしようとエリカとウィルは夫婦でまったりとしていた。
テレビはウェストミンスターホールの女王様の棺に頭を垂れる人々を、延々と映している。
弔問も最終日、行列は4キロの長さに達し、受付は早々に打ち切られたらしい。明日は国葬、服喪すべきとして、急遽祝日扱いとなった。
そこへ、玄関のベルが鳴り響く。
エリカがドアを開けると、昨日の女性巡査部長と、精悍だが中年の私服刑事らしき人が立っていた。
「犯罪捜査部刑事のイアン・バンクスと申します。こちらの巡査部長には昨日お会いいただきました」
「はい」
エリカが2人を居間に招じ入れ着席してもらったところで、ウィルが慇懃無礼スレスレの調子で訊いた。
「刑事さんが来られたということは、不審死確定ということでしょうか?」
バンクス刑事がイケメンに苦労を刻んだ顔をしかめて「いや、まだ確定ではないんですが……」と語尾を濁すと重ねて、
「辛いところですよね。赤の他人の僕達に、彼女の持病を告げるわけにもいかず、死体の写真を見せるわけにもいかない。プライバシーや個人情報の枷の中で捜査するなんて」
と続ける。
エリカは昨日から何度となく湧き上がってくる夫への不信感がまたも膨らむのを感じた。
中年刑事はうっすらと苦笑を浮かべて答える。
「まだ、捜査という段階でもないんですが、それだからこそやりにくいというか。あなたがたが容疑者なり重要参考人だとなれば、もっとぶっちゃけた話もできるんですがね」
「そして僕が下手なことを口走ると、容疑者にされてしまう」
やめてよ、とエリカは心の中で叫ぶ。
自分が毎日首都圏へ通勤する間に、夫とシホさんが仲良く家を行き来している絵柄が脳裏に浮かび寒気を覚えた。
昨夜、そんな気分じゃないとエリカが言うにも関わらず、何かとスキンシップが多かったのは、夫が何かを誤魔化そうとしていたためなのだろうか。
エリカを間に挟んで男2人の目線はぶつかり火花を散らしたようだったが、ウィルがそっぽを向いたのを見て取って、刑事の質問の矛先はエリカに移った。
「そこでですね、奥さん」
何がそこでなのかエリカにはわからなかったが、膝に両手を置いて刑事さんの次の言葉を待つ。
「お隣とはたいしたお付き合いはされてなかったんですよね?」
「はい、立ち話だけで、お茶に呼び合うような仲でもなかったので……」
「土地の権利や日照権で揉めているなんてこともなかったですよね?」
「そんな、全くないです。うちがこの家を買って後から引っ越してきたんだし、何の不満も……」
「奥さんの指紋の付いた封筒内から、細かな植物片が検出されました」
「へ?!」
エリカが驚くよりも先にウィルが顔を振り向けて刑事さんに問いかけた。
「じゃ、毒殺だとでも?!」
「いえいえ、まだそこまでは。ただ、オキーフさんの持病の発作のきっかけくらいにはなったかもしれませんね」
「発作のきっかけ? アルカロイドの定性が先でしょう? シホさんは発作を起こしたように見える状態で殺害されたかもしれない。フォレンジック・レポート出てないんですか?」
「はあ?」
今度は刑事のほうが驚く番だった。
そして言葉がくだけた。
「アンタ、刑事番組の見過ぎじゃないか?」
顔を歪めたまま嫌味っぽく続ける。
「ご主人、昨日アンタはオキーフさんを木曜に見かけたと言ったそうだが、相当いい加減な記憶だ。アンタが見たがってるフォレンジック・レポートによれば、死亡推定時刻は水曜日の午前7時から9時。アンタは幽霊でも見たってのかい? それに直接の死因は心停止。彼女の持病にありがちだ。このくらいなら教えてやるよ」
ウィルは刑事の心証を悪くしたことは少しも気にならないようで、
「心停止なんだ……呼吸困難でなく……」
と顎に手を置いて考え込んだ。
刑事はそれをチラリと見てからエリカへの質問に戻る。
「奥さんの仕事は一般住宅の不動産鑑定士ですよね? 仕事柄、庭木や草花に詳しかったりしますか?」
「え、私は……、敷地の評価額を下げなければならない根絶しにくい雑草ならいくつか知っていますが。例えばアイビーやイタドリ、アンジェリカなど……」
「そうですか。詳しいことがわかるまでとりあえず、すぐに連絡が取れるようにしておいてください。またお話を聞かなきゃならないかもしれない」
黙っていたウィルは、刑事と巡査部長が「では、今日はこれで」と立ち上がって暇を告げると、クイっと顔を向け「詳しいことを聞かなきゃならないのはこっちのほうだ」と呟いた。
警官たちは夜道に妖怪でも見たかのような顔でウィルを見下ろす。
「その植物片は何だったんですか? 入っていた封筒の消印はどこでしたか? シホさんの体内にも、その植物は検出されているんですか?」
バンクス刑事は何とか表情を取り戻したが、そこには明瞭にウンザリだと書かれていた。
「植物は1種類じゃない。だから時間がかかってる。体内摂取の有無も監察医の報告待ちだ。鼻腔に炎症痕が見つかり司法解剖に回った。それにしてもアンタ、奥さんの指紋の付いた封筒にあったものが毒草で、それがオキーフさんの体内からも出たら、奥さんの容疑が濃くなるとわかってるか?」とまくし立て、ウィルは、
「封筒を抓んだだけで加害者扱いされるなんてあり得ない」
と、憮然とした。
が、刑事も当然ながら負けん気が強く、
「消印はロンドン。奥さんの勤務先もロンドンでしたね?」
と冷たく笑った。
――――私は容疑をかけられている!
エリカの心はキュッと縮こまる。
シホさんが邪魔で、毒草を用意して、ロンドンの雑踏に紛れて匿名で投函したという図柄が頭に巡る。縮こまった心はヒリヒリと痛みを発した。
ウィルが心配するなと声かけてくれると思ったのに、聞こえてきた夫の発言はあまりに唐突で、エリカは薄ら淋しさを隠せなかった。
「シホさん、誰かにお金を貸してませんでしたか?」
刑事たちは口をあんぐりと開けて顔を見合わせたが、女巡査部長のほうが先に金切り声をあげた。
「そ、それはどういう意味?!」
「シホさんを恨んでいた人は複数いそうだってこと」
そう言い捨て、スッと立ち上がり2階に向かった夫の背を、エリカはぼうっと目で追ってしまった。
バンクス刑事は言い返す相手を失って、エリカに向かい、
「ご主人は事件好きなのか捜査を攪乱したいのか、どっちなんでしょうかね? オキーフさんの死因は持病の発作の心停止、が一番無難なのに」
と、困惑顔で告げ、頭を掻いた。
無難かどうかで死因を決められてもシホさんも不本意だろうけど、自分が冤罪を受けるよりはいいかもと感じながら、エリカは玄関から刑事たちを送り出した。