ちょっと過激なアイルランドと義理の息子
ウィルが自宅で頭を抱えている時に、2キロ離れた警察署ではバンクスが叫んでいた。
「何だって?! デイル・ピットがロンドンにいた?」
答えるのは当然、ヒラリー巡査部長だ。
「はい、女王陛下国葬時に、抗議行動を」
「抗議? デモ隊か? テロか?」
テロという言葉は突飛でも何でもない。アイルランドにはテロ組織と見做されている団体があってしまう。
その活動はアイルランド内にとどまらず、過去には英国本土でも、MI6(英国のCIA)ビルに向けロケット弾を発射するという事件も引き起こしている。
そもそも、アイルランドが英国から独立したのは20世紀、ついこの間のことで、その後も、北アイルランド紛争は混迷し武力衝突が続いた。
UKの一部として英国側に残りたい北アイルランドと、アイルランドとして全島をひとつの国にしたい人々の軋轢、そこへプロテスタントとカトリックの宗教戦争の様相が絡む。
何を提案しても誰かが不満を持つといった複雑な主張がぶつかり合う中、ベルファスト合意がなったのが1998年、徐々に武装解除が進み「もう武器は使わない」と各派が落ち着いたのが2010年。
故エリザベス女王は2011年に100年ぶりに英国王室トップとしてダブリンを公式訪問している。
やっと無事に訪問できた、というのが正直なところだろう。
ベルファスト合意から25年になろうとする現在でも、「テロ注意喚起」は残念ながらたまに流れてくる。
困ったことの上塗りに、イギリスはEUから離脱してしまい、アイルランドはEU。地続きの北アイルランドはUKだからもうEUではない。
でもアイルランドと北アイルランド間には商品も住民も自由に行き来していいという、慣例がある。
実際、300近い道路が国境を渡るが、田舎道にはパスポートコントロール所があるわけでもない。
「じゃあ、英国本土の輸出品を北アイルランドへ送り、アイルランド共和国側へ運んでしまえば、EUの課す書類審査や関税障壁はなくなる?」
「やっと落ち着いたアイルランドと北アイルランドの間に国境の壁作るなんて言わないでよね」
と、またも問題噴出。
ブレクシット(英国発音。日本語表記はブレグジット、恐らく米語)のしわ寄せがこんなところにふつふつと溜まっているのだ。
そこへとうとう起こってしまったエリザベス女王崩御。
瞬時のうちにアイルランドの歴史概要を頭に流したバンクスはヒラリーの言葉を待つ。
ーーーオキーフ氏の息子、デイル・ピットはわざわざロンドンまで来て、どんな抗議をしたんだ?
「いえ、それほど過激なものではなかったようです。お葬式だから、王政反対のプラカードに座り込みだけで、銃火器の使用はありません。ただ、一般弔問客の大行列にこれみよがしに近づいたようで、元々徹夜覚悟で並んでる善良な人達ですから警備隊が心配して、念のためグループ全員を押し留め、職質したようです。その中にデイルの名がありました」
「何日のことだ? 弔問は15日木曜日から18日、あの郵便を投函したとしたら月曜日12日にロンドンにいなくちゃならない!」
「ダブリンからロンドン・ルートン空港入り9月10日」
「じゃあ、郵便はバッチリ出せる! 8日に女王様の訃報が入って、ちょっと準備してやってきたってとこだな?」
バンクスは久々に気持ちが高揚するのを感じた。事件の様相を呈してきたじゃないかと。
「そうですね。ご逝去の発表、午後7時くらいだったから、まあ、迅速な行動なんじゃないでしょうか?」
「今どこにいる? 連絡はつくか?」
食い気味に言葉がバンクスから飛び出していく。
「ロンドンからの出国者データにはまだ名前がありません。他の空路、海路は未チェックですが。職質時に、ロンドン在住の同郷者宅を連絡先として残しています」
「スコットランドヤードに身柄押さえてほしいところだ」
「でも、殺人かもわからず、容疑者でもない相手について、越境捜査協力依頼はできないでしょう」
「だよな」
しゅうっと音をたてて、バンクスの中で膨れ上がった風船が萎んでいく。
「いつもと立場が逆ですね、私の勇み足を止めるのが刑事の役なのに」
ハッと見上げると、ヒラリー巡査部長は包み込むような笑顔でバンクスを見つめていた。
「落ち着いてください。シホの家が欲しいという明確な動機があるだけで舞い上がってませんか? よしんば毒を送りつけたとしても、女王国葬時を選ぶ意味がありません。シホを殺したかったらいつでもよかったはず」
「そうだ、そうなんだよな。刑事根性の思い込みと焦りだ。監察医判断が出ないというこのタイムラグがあり過ぎて、俺自身が空回りしてる」
「自覚がおありなら結構です。確か過去日本には、エンペラーが死んで殉死者が出たという事例があったかと思いますが、クィーンが死んだからシホが自殺したと見せかけるなんて、ごまかしにもならない」
「そうだな。抗議行動に来るついでがあるからロンドンから郵便出しました、と言ったらそれ以上に稚拙だ」
「いずれにせよ、シホの体内とあの封筒に同じ毒物が見つからない限り、私はもう動きませんから。町内のパトロールに出たほうがましです」
つんとそっぽを向かれ、見限られたかとバンクスは心の隅に痛みを感じた。
颯爽と事件を追いかける自分を見せたかった、それほどまでに目の前の女を意識してしまっている事実をわが身に突きつけられて。