お隣さんが孤独死だって
自分が死んだらお隣さんが困るだろうなあ、という着想です。もちろん、資産額とか美貌とかは、盛ってます!!
イギリスの暮らし方が垣間見えるかもしれません。
英語もかなり出てきます。
すごい勢いでアップしていきますので、読めなくても気にしないでくださいませ。
読めるところまで読んでもらえたらそれで嬉しいです。
土曜日、休日出勤帰りのエリカは手持ちの鍵で玄関を開け、短い廊下の奥の居間に続くドアに向かって、ただいまの意味で「ハロー、ダーリン」と声をかけた。
リモートワークの夫ウィルが、居間の奥の机についているはずだから。
エリザベス女王が亡くなり、ウェストミンスター寺院には全世界からの弔問客が何時間も行列しているという世相に、夫婦そろってワーカホリックだ。
もぞもぞとコートを脱ぎフックに掛け、パンプスをスリッパに履き替える。
その頃になってやっと、ドアの向こうに来客の気配があると気付いた。
フックの対面にある鏡で、素早く髪と口紅だけ確認して、居間のドアを開く。
目の前の応接セットには、制服警官の男女が並んで座り、夫が斜め横から相手をしている。
「お帰り、エリカ。突然なんだけどお隣のシホさん、亡くなられたって」
「何ですって?!」
エリカの視線は夫と警官の間をキョロキョロと泳ぐ。
「奥さん、まあ座ってください、念のためにお話を伺うだけですので」
ショックも隠せずにウィルの隣に座り込むと、夫は入れ替わりに立ち上がって、「ローズティー淹れてくるから」と囁いた。
警官たちの自己紹介の後の気まずい沈黙に、湯沸かしポットの音が流れていく。エリカは喉の奥から声を絞り出した。
「あ、あの、亡くなられたって、こんな突然……。それに警察って、不自然な死……ってことでしょうか?」
「あ、いえ、そんなに驚かないでください。孤独死ですから。誰にも、遺族にも医療関係者にも看取られていないので、事件性の有無を確認する必要があるだけです」
「事件性の有無……、孤独死……」
エリカはバカのように単語を繰り返すしかできなかった。
「警察としては、十中八九、持病のせいで倒れられたという見解なのですが、急なことでもありますし、一応、ご近所の話を伺っておこうということで」
女性警官のほうが巡査部長で、男性のほうが下っ端、人好きのする彼が会話担当らしい。
ぼうっとしたエリカに、馥郁としたバラの香りが届く。
横からお気に入りのマグが差し出されている。湯面にバラのつぼみがひとつ、揺れていた。
血の気の引いた両手に柔らかい温もりが伝わり、一口含むと、はちみつをちょっぴりたらした、まろやかな優しい味が喉を潤した。
顔を上げるとウィルが心配そうに見つめていて、エリカが何とか笑顔を作ると、夫は少し安心したように隣に腰を下ろした。
「奥様がお隣さんを最後にお見かけしたのはいつになりますか?」
「えっと……私は平日仕事なので、ちょうど1週間前、先週土曜日、になります……」
「お元気そうでしたか?」
「はい、いつものエコバッグを手にコンビニに行く様子で」
「何時ごろ?」
「朝……10時過ぎです」
「そうですか……」
メモを取る巡査の横で女性巡査部長がカバンの中からいくつかのビニール袋を取り出し、エリカの目の前にぬっと突き出した。
「この3通の封書に見覚えはありませんか?」
事務的な女の声は冷たく聞こえるわ、などと思いながらエリカが証拠物件らしい袋の中身に目をやると、
「え、うそ、あの、郵便?」
と自分の口から勝手に言葉が出ていった。
「奥様の指紋の確認をさせてください」
―――――
あれは先週の火曜日の帰宅時。
夕方からの秋雨にしとしと降られて、エリカのお気に入りの薄手のコートもじめっと濡れていた。
玄関を入ってコートを脱ぎ裾周りを確かめると、泥ハネが酷い。
乾いてから落とそうと思いとりあえずフックに掛け、エリカの意識は足元に落ちていた郵便物に移った。
疲れた体を折り曲げて3通の封書を拾い上げる。
「郵便受け」などという洒落たものはない。玄関のドアにひさし付きの開口部があるだけの造りだから。
「なあんだ、全部お隣宛」
いつものように、「ハロー、ダーリン」と居間のドアを開けると、ウィルは、「やあ」と、応接セットの向こうのPCの陰でいたずらっぽく笑った。
ビデオ通話はなかったのだろう、梳かしてもいない栗色のくせっ毛に、灰青色の人懐っこい瞳。
居間の奥の机から玄関まで大股で15歩だというのに郵便を取りにも行かなかったと、責められると思っての表情なのだろうが、エリカは別に怒るつもりもない。
「郵便、あったんだ」
「うん、でも……」
封書の表書きに目を落としたエリカから「フッ」と失笑が洩れる。
「みんなお隣のヨーク小路1番地宛。でも今日のは酷いわ」
子どももなく、お互い好きな仕事に没頭している30代若夫婦に来る郵便など多くはない。
だのに、お隣の郵便が紛れ込むのは、この国に表札を掲げる習慣がなく名前を確認したりしないことを除けば、専ら家の立地がポストマン泣かせだからだ。
というのも――――
ランカスター通り29番地が2人の家。
でもこの通りは釣り針のようにカーブしていて、曲がりの一番急なところから枝分かれし、ヨーク小路が伸びる。
ランカスター通り29番の右隣はヨーク小路1番地。
では左隣はというと、公園へ続く遊歩道になっていて、家はない。だからどう見ても、2人の家がヨーク小路の始まりに見えてしまう。
ちなみにその遊歩道を挟んだ先には、ポプラ並木に隠れたランカスター通り31番のお宅があるので、奇数番地が通りの片側に並ぶという規則に準じている。
辻褄はあっているのだが、エリカの家は右の隣人宅にあまりに近くて、「うちもヨーク小路よ」という顔をしているというわけ。
しかし、エリカが酷いと言ったのは、郵便配達ミスのことではなかった。
「ねぇ、見てよこれ、この宛名」
エリカは3枚の封書をウィルのキーボードの上に並べた。
――――
Ms Sherlock Eve シャーロック・イーヴ様
Mrs Shylock Keep シャイロック・キープ様
Hemlock Kiev ヘムロック・キーウ宛
――――
「うわあ、これはミス・スペリングの錚々たるコレクションだね」
何か想像をかき立てられたのか、ミステリ好きのウィルは目を輝かせた。
2人の隣人、ヨーク小路1番地の住人は、Shiho Himuro-O'Keeffe、シホさんという日本人。
英語で丁寧に発音すれば、シーホ・ヒミューロ・オキーフとなるだろうが長いし、耳で聞いて書き取れる綴りでないことも確かだ。
オキーフという名字からしてご主人はアイルランド系だったのだろうが、1年前2人が引っ越してきた時にはもう他界されていて、シホさんは一人暮らし。
彼女も、しゃべらなければアイルランド系美人に見えないこともないのに、とエリカは若干残念だ。
ここ英国内では、艶のある黒髪とくっきりとした目鼻立ちはアイルランド系に多く、特にシホさんの瞳は印象的な、ブルーとブラウンが混ざり合ったようなアースカラーだから。
知り合って間もない頃だった、エリカが「ミドルネームのヒミューロって日本の名前?」と尋ねると、シホはセミロングストレートの髪を揺らして、
「あ、氷室、私の旧姓。旧姓を残したくて、ハイフンで繋いでダブルバーレル名字にしたの。氷室はアイスハウスって意味なんだけど、ちょっと歴史のある名前で」と教えてくれた。
シホの発音ではHimuroはHimlow、どう聞いてもLの音に聞こえる。
エリカが日本語訛りの英語に目を白黒させているうちにシホは、
「エリカって日本の名前にもあるのよ。私の姪が恵梨香なの。うちの人のお葬式にも来てくれて」と付け加えた。
「シホ」からして、英語としてはかなり発音しにくい名前だ。本人の言う通りに真似をすると、失礼ながら「Shit Why?」に限りなく近づき、口にするのも気がひける。
そんなこんなで顔を合わせても当たり障りのない挨拶を交わすだけにとどまっていた。
――――まあ、シホさんのフルネーム発音をお初に聞いたら、シャーロック・イーヴに聞こえないこともないわね。
くすりと笑ってエリカは着替えもせずにまた家の外に出て、3通の封書をお隣の玄関の郵便受けに滑り込ませた。