羽化
「おまえはつまらない子だね」
生まれたときから言われ続けた言葉だった。三つ年上の姉が天から恵まれたように美しく、聡明で、かつ何者にも隔てなく優しいという完璧すぎるようなひとだったから、その姉と比較してあまりにも平凡なわたしは家族中から落胆された。長女がそうなら第二子についても期待があったのだろう。あるいは長女をも超えるぐらいの天才が生まれるのではと思ったところに、容姿も成績も気配りも平凡なわたしという娘が生まれたのだから、両親も祖父母も揃って肩を落として無念がった。そんなわたしを唯一可愛がってくれたのが姉だというのがなんとも皮肉に思えたし、実際姉がわたしを愛すれば愛してくれるほどなんだか自分自身が惨めに思え、姉の愛情が憐憫に感じられて仕方なかったから、わたしはこの心優しく美しい姉が苦手だった。
平凡で、平均で、つまらないと言われ続けたわたしなりにも、それなりに悔しいという気持ちがあり、如何に姉に及ばぬとはいえ努力した。幸い「つまらない」と常々言う親ながらわたしへの教育を放棄することはなかったので、塾へ通いたいことや習い事をしたいと申し出れば叶えてくれる。「どうせおまえには無理だろうけど」と必ず言われたが、それでも許可を出されただけで構わなかった。わたしは諦めず、勉強にもお稽古にも喰らいつき、爪を立ててしがみつくように教養というものを得ていった。
「蝶子ちゃんの髪は綺麗ね」
姉は、わたしが姉のことを苦手視していることを知りながらわたしを愛することをやめなかった。本当に神に愛されたように慧眼を持つひとだったから、他人の繊細な心の機敏まで見抜いてしまうのだ。そんなところも苦手だったが、だとしても嫌いではなかった。憎んでもいなかった。だから姉がわたしを愛し構うたびにどうしたら良いか解らなくなり、注がれるものを拒絶するやり方も解らなかった。
毎日のように「つまらない」と両親に言われ続けるわたしに対し、姉は毎日のようにそう言った。壊れ物にでも触れるかのように優しい手つきで丁寧に丁寧にわたしの髪を梳き、うっとりとした声色で褒めてくれる。
容貌も勉強もお稽古事も他者への配慮もなにもかも姉には敵わなかったが、唯一髪の艶だけは姉に優る。高校に入ってすぐに始めたアルバイトで稼いだお金で購入した、家族のものとは別の特別なシャンプーコンディショナーを使用し、トリートメントにも気を遣って、ヘアオイルでケアをし、ドライヤーも良質なものを購入する徹底ぶりなら、当然のこととも言えただろう。
姉はわたしの髪を好きだと言う。一目惚れのあまり奮発して買ってしまったお気に入りの螺鈿細工が施された櫛で、姉がするするわたしの黒髪を梳いていく。
「蝶子ちゃんが本当に蝶だったなら、きっと世界で一番艶めかしい黒揚羽になるんでしょうね。だってこんなに綺麗な黒髪をしているんだもの」
するする、するする。何度も姉が髪を梳く。自我の芽生えた頃から伸ばし続けていた髪は、大学卒業を目前にした今、もう腰をも過ぎるほどの長さだった。
「家を出る?」
卒業式の七日前、一般的に家族団欒と言われる夕食の時間にわたしはいよいよ告白をした。眉を寄せたのは母も父も同じで、隣の姉だけが知っていたように半ば俯いている。わたしは力強く頷いた。
「卒業式の日、そのまま家を出て行きます。就職先も県外のところを受けて無事内定を貰いました。部屋の保証人は保証人会社を使ったし、引越し業者の手配も済んでいます。あなたがたの手を煩わせることはありません」
「急になにを言ってるんだ。そんなのなにひとつ聞いてない」
「今初めて言いましたから」
「ちょっと、どういうつもりなの。あんた、これまで育ててあげたお母さんたちに申し訳ないと思わないの」
「感謝はしています。けど申し訳ないとは思いません」
きっぱり言えば父も母もまるで鬼か般若のように顔を歪めた。隣の姉が涙を堪えるように目を覆う。
わたしは戸棚から裁ち鋏を取り出すと、生まれてこの方、一度も短くしたことのない髪を、頸のあたりで一息に切り落とした。
「だってわたし、『蝶』だもの。蝶は飛び立っていくものだから、わたしもそれに倣います。この名をくれてどうもありがとうございました。皆様どうぞご機嫌よう、いつまでもお元気で」