藤原シノ(日本舞踊の背景を持つ舞台演出家の女性)
名前:藤原シノ
性別:女
年齢:23歳(4月3日生まれ)
家族構成:埼玉に暮らすサラリーマンの父、ハンドメイドをフリマで売るのが趣味の主婦の母、7年前に亡くした日本舞踊の先生の祖母
出身地:埼玉県(中学入京都へ来たことで離れる
身長体重:161cm、56kg
髪型:肩までの髪をストレートにパーマしている。
特徴:祖母からのしつけで仕草が非常にきれい、容姿は平均より上程度だが表情が凛々しい特徴がある
趣味:YouTube動画投稿
尊敬する人物:祖母、日本芸能の偉人
私は埼玉にある20世紀からずっと東京のベッドタウンであり続ける退屈な街で生まれた。大学進学まで二次下請けメーカーに務める大卒サラリーマンの父と、主婦をやりつつ趣味が高じたハンドメイドの品を出品する母と、3人で暮らしていた。京都に住む父方祖母は厳格な日本舞踊の先生で、私を中学校三年間だけ同居させて、礼儀作法から何から教え込まれた。当時は嫌で嫌で仕方がなかったけど、バンドマンを目指すと言って二十代後半までズルズルフリーターを続けた結果、祖母に泣きついて今の仕事を手に入れた父は、私をある種の生贄として差し出すことに反対できなかった。というか、まったく反対しなかったのだが。祖母は私を行く行くは後継者に、と考えていたのか、それともただ単に夫に先立たれた寂しい身の上を慰めるために住まわせていたのか、今となってはわからない。私が高校に入ったばかりの頃、祖母は脳出血で他界したからだった。私はその頃、ちょうど反抗期で、祖母に対して稚拙な反抗心をつのらせていた。私を生贄にした父も、それに反対しなかったハンドメイドオタクの母も悪かった。その日のことは今でも覚えている。お稽古があることを忘れたフリで友達と遊んで暗くなってから帰った家の電気がついていなかったこと。着物の着付けの途中で倒れた祖母が、すでに冷たくなっていたこと。救急と両親と、それからおまけに警察がわちゃわちゃやってきて、私は初めて祖母が〇〇会という暴力団と深い関係にあったと知った。幹部の誰かと昔関係を持っていたらしい。私は人間の見えない部分に驚いた。今私は、父が相続することになった祖母のとんでもなく大きな日本家屋でひとり暮らしをしている。相続税をどうやって払ったのかわからないが、どうやら祖父の葬式でしか合ったことがない父の兄がとり計らってくれたらしい。あまり話したことがなく、政治家であることしかわからない、実際の顔より選挙ポスターの顔のほうがイメージが強い叔父。もしかしたら私が祖母の生贄にされたことと関係があるのかもしれなかった。難しい話はおいておいて、祖母には昔の弟子だったお手伝いさんが何人もいて、何かと世話を焼いてくれたから、高校生の一人暮らしでもなんとかなった。祖母と過ごした時間を思い出すたびに、感傷的になってしまう。キッチンに立って、包丁を握るたび、そういう気持ちになる。祖母は料理も得意で、私に多くのレシピを教えてくれた。今でも祖母が教えてくれた料理を作ることがあり、その時にはいつも祖母と一緒にいるような気がする。厳しい祖母だったけど、今では立ち居振る舞いから考え窯から全てを教えてくれた祖母が懐かしい。高校は演劇部に所属し、実力派の女優を目指すことにした。京都のお嬢様高校の芸能関係の部活は、関東では考えられないような上下関係があった。演劇部はマシだったから、日本舞踊ではなくそっちをえらんだんだ。大学には進学しなかった。祖母が女が大学へ行くなんて、と言っていたからか、それとも演劇に集中したかったからか。女優になるという夢は、容姿への自信のなさからだんだん薄れていき、二十一歳のときに友人と一緒に立ち上げた劇団で演出家として活動するようになってからは、完全に忘れてしまった。最初は苦労したが、少しずつ評判も上がり、今では都内の小さな劇場で定期的に公演を行っている。今私は二十三歳になり、俳優の彼と付き合いながら、自分が演出した舞台のビデオを編集してYouTubeにアップすることに夢中になってる。オンラインでもっと多くの人に見てもらえるように、SNSのフォロワーを増やすために毎日投稿している。今も私は広い家で一人暮らし。私が日本の伝統芸能でなく、演劇を選んだあと、お手伝いの祖母のお弟子さんたちはだんだん来なくなってしまったから、気楽なもんだ。友人たちを週に一度は呼んで、食事や飲み会をして交流を深めている。家の固定資産税は相変わらず父が払っているけど、今はあまり難しいことは考えず、演劇と、彼との未来と、友人たちと過ごす時間だけ考えていたい。
(彼女は一見、落ち着いた印象を受けるが、内面では自分自身と向き合い、常に成長しようとしている。彼女は自分の人生を前向きに考え、次に何をしようか常に考えている。彼女はいつか自分だけの劇団を持ち、世界に名を轟かせる演出家になることを夢見ている)