(十九)月と、虫けら。
洒落たBGMに、深いコーヒーの薫り。それらに誘われるように、初春の小雨の雨脚ほどのぽつりぽつりという間隔で老若男女問わず客が来店する。本日のカフェ「Black&White」もぼちぼちよい塩梅で盛況といった様子だ。
「……ん~! 今日もいつもどおり美味しいですよ、無我夜さん!」
落ち着いた店内に甲高い声が響き渡る。コーヒーの表面に波を立てるほどの声は、もはやこの店のコーヒーに次ぐ名物と化しており、よくここへ足を運ぶ客はそれを耳心地良さそうに聞いているか、もしくはそれがBGMかのように無反応だった。当カフェ常連客である声の主ルナが目線を送る人間は、店内でただ一人だけである。
「そりゃどうも」
彼に名前を呼ばれた当人の無我夜は、カウンター越しの調理場スペースで洗い物をしながら生返事を返した。無我夜の目はルナの方を一瞥すらしない。ルナは頬をリスのようにぷくぅっと膨らませて声を上げる。
「あ~! また、適当に返事しましたよね! バレバレですよ、まったくもう」
フーと息を吹いて、また一口、コーヒーを啜る。底無しの沼のような奥深いコーヒーの薫りと苦味が舌の髄まで溶けてゆく。すぐさま小皿で添えられたチョコレートの角をほんの少し齧ると、その柔らかで濃密な半ば暴力的なまでの甘味が身体の奥深くまで染み込んで、ルナは幸福の海で揺蕩う心地だった。目を閉じて多幸感に浸っている様子のルナを見て、無我夜は(騒がしい奴だ)と呆れて苦笑した。
「少し、考え事をしていただけだ」
洗い物を終えて、追加オーダーの入っていない今、客のいないテーブルを掃除しようと布巾を手に持ってフロアの方へ出ていく。
「考え事、ですか? まさか、僕が毎回コーヒー以外の注文をしないことをそんなに悩んでたんですか⁉」
「そう思うなら何か注文してくれよ……」
テーブルを拭きながらルナの方をじと見つめるものの、ルナはわざとらしく目を逸らしてコーヒーに口を付ける。しかし、息を吹いて冷ますステップをすっ飛ばしてしまったせいで熱湯と変わらないそれを口に含んだ途端、全身を跳ねさせくねらせて悶絶するルナ。無我夜はテーブル一台を拭き上げ、小さく溜息を吐いた。
「ルナ、今日が何の日か分かるか」
「え? う~ん……あ! そういえば、僕がこの店に通うようになって、ちょうど1253日目記念日ですね‼ 無我夜さん、意外と記念日とか気にする人なんですね」
「全く違う。それに、1253は全然ちょうどって番号じゃない」
「いやいや、違くないですよ! 僕の記録に間違いはないはずです。お店に行った日は全部記録してあるんですから!」
「いや……」
布巾を再度濡らすため調理場スペースへ向かいかけた無我夜は、ルナとの会話にほとほと呆れてしまってその足を止め、しばらくルナの能天気な顔を見つめてから、深く溜息を吐いた。
「今日はスーパームーンの日だ」
ルナに背を向けて話を続ける無我夜。
「スーパームーン……?」
「普段よりも数倍月が大きく、綺麗に見える特別な日だそうだ。朝のニュース番組でやっていた。ルナ、お前テレビは見ないのか」
「あんまり見ないですねぇ。僕は忙しいので!」
蛇口を捻って水流を布巾で受け止めながら、無我夜はカウンター越しのルナをちらと見る。何故か自信気に胸に手を当てて胸を張っているルナ。
「ああ、そうだな」
「ちょっと! もう少し反応してくださいよ!」
フフ、と小さく鼻を鳴らす無我夜。ルナは小さく笑いながら、コーヒーを一口。
「それで、スーパームーンがどうかしたんですか?」
「ああ、そのことだが。こんな機会は中々ない。今日は夜更けまで営業を続けてみようかと考えていた。大輪の月を眺めながらのコーヒーもいいだろう」
布巾を絞り、静かに二回首肯して意思決定した様子の無我夜。チョコレートに舌鼓を打っていたルナだが、突如目を見開いて立ち上がる。
「えぇっ⁉ 行きたい!」
「好きに来ればいいだろう」
無我夜は一瞬ぎょっとしたものの、元の冷静な顔に戻って返答する。しかし、ルナは無我夜の言葉を受けてもしばらく黙っていた。
「行けないんです……」
「何か予定でもあるのか」
「いえ、未成年のうちは夜間に外出するなと幼い頃から父に言われていまして……」
洒落たBGMが止まる。店内の潮騒のような客の会話。ルナは無我夜の眼を見ているが、無我夜の眼はルナの目をじっと貫いているようで、何も捉えていないような、そんな気がして、ルナはそれから目を離さずに、離せずにいる。無意識に息が詰まる。遠くにいるはずの無我夜が息を吸う音が、何故かはっきりと聞こえる。
「そうか」
無我夜の目がルナを見る。ソロアイドルA-kaneの新曲の情熱的なギターリフでのイントロが体を揺らす。
「お前はまだまだガキってことだな。お家で静かにおねんねしてろ」
口の端をにいっと吊り上げた悪い笑みの無我夜に、ルナは何故かほっとして、やっと息を吸うことができた。
「あ、失礼な! まだ未成年ですけど、僕はもうオトナですよ! コーヒー飲めますもん!」
「ルナ、良いことを教えてやる。大人は自分から『自分が大人だ』とは言わない。それにお前がここのコーヒーを飲めるのは、付け合わせのチョコレートを飛び切り甘いものにしているからだ」
再びフロアへ出てきてそう語る無我夜に、ルナは「うへえ」というような顔をして残りのコーヒーを口に含んだ。いつの間にか冷えていたコーヒー。いつまでも口に慣れない苦味を、氷のようなチョコレートで上書きする。深海の如きそれらの味に沈みゆくルナには、先程の、同じく深海底のような無我夜の眼が想起された。あのときの感覚は、忘れもしない、いつかの見知らぬ三人組とのカフェ前での邂逅のときのものとよく似ていたように思われた。
(何だったんだろ)
続けて口へ運んだコーヒーの冷たさが、歯に染みて痛かった。
銀の大皿のような月だ。夜の街はスポットライトに照らされたような、いつも以上の明るさを放っている。奇妙なほど明るい夜だった。
店前の道へ出て夜空の巨大な月を見上ぐ無我夜は、一つ溜息を零してまた仄暗い店内へと戻る。
すっからかんの店内では、エプロン姿の輝が机に突っ伏して四肢を伸ばし、両脚をばたばたさせていた。
「ひまぁ〜‼︎」
「ああ、全くだ」
ピカピカに掃除された店内を見回して、無我夜は輝の向かい側にどさっと腰を下ろす。背凭れに全体重を委ね、今にも椅子と身体が溶け合いそうだ。
「……月、キレイだねぇ」
「ああ、客が一人もいないから店内からもよく見える。……皮肉だ。普段夕方には閉まる店舗が一日限定で唐突に営業時間を延長しても、今まで来ていた客層は来れないし、この時間帯の通行人のニーズも満たせない。当たり前のことだ。全く、せっかく輝も手伝ってくれているのに。仕事終わりなんだ、客もいないし、わざわざ店の手伝いなんてせずにゆっくり上で休んでくれてもいいんだぞ」
視線を向けるため、首を立ててそう呼び掛ける無我夜に、輝は笑顔で左右に首を振る。
「ううん、いーのいーの! 私が好きで手伝ってるんだし、それに、お兄ちゃんと一緒にいたいもん!」
輝の太陽のような笑みに、無我夜は月のように微笑み返す。店内に流れる小粋なジャズミュージック。
「あっ、そうだ。暇だから次回の授業のやり方考えよっかな。ねぇお兄ちゃん、ここに教科書とか持ってきて作業してていい?」
「お好きにどうぞ。あまり根を詰めすぎるなよ」
既に軽々と立ち上がって上階へ向かおうとする輝の背に無我夜が返答して念押しすると、階段を駆け上り消え行く小さな背中から「はいは〜い!」と軽はずみな返事が聞こえた。
ふぅ、と一息吐く。無我夜は再度店内を見回す。客がいなくてもできる仕事は粗方片付いてしまった。店内は机上やフロアの床に塵一つないのは当然として普段客の目に付かない箇所、例えばシンクには水垢の一つもなく、テーブルや椅子の脚ですら何の汚れもない。壁掛時計の裏にも埃は一切ない。店は営業開始初日の様相だ。火周りの油汚れでも落とそうか、と立ち上がって店内の照明の輝度を上げてから、キッチンの方へ一歩。
バタ、バタ。
ガラス戸が力なく揺れる音二つ。振り返る無我夜。室内の明るさと外の暗さで、ガラスは無我夜一人の店内を全反射している。扉の方へ、歩みを進める。怪訝な表情が鏡となったガラスに映る。ノブに手を掛けて戸を開ける。
異形。眼前に四人、今にも地面に崩れそうな異形の女たち。乾きかけの赤黒い血が全体に滲むボロの服。目を見開く無我夜は、状況が理解できずにノブに手を掛けたまま動けないでいる。
「お願いだ、なにか、食いものをくれ」
先頭の女が掠れた声を肺から絞り出す。女には頭頂部からカマキリの前肢のような鎌付きの触手が二本生えているが、それは力なくだらんと垂れ下がり、今にも顔面を傷付けんとしている。視線が下へ向かうと、両腕もまさにカマキリのそれの如き構造で通常の人間の手はどこにも見当たらない。よく見れば背後にも少々大きい同様の触手が四本垂れている。ぼさついた長髪と触手の間から、二重の輪のような、図形のような形をした瞳孔がぎらりと覗く。眼窩から飛び出そうな開かれた眼は皺が寄りそうなほど乾いている。
「なンでもイイ、カネなら、あッから、だから、たのむ」
鎌の女のすぐ後ろ、一際背の高い女も続く。その人間の域を超えた高身長が、深々と頭を下げる。額から長髪を掻き分けて天を穿つほどの二本の角。それにその巨体と長く鋭利な爪も加えて、まさに鬼のような女だ。頭を下げる前に目にした饐えた瞳に滲む瞳孔はドーナツ状で、鎌の女と同じく図形のような相貌だった。
彼女らの背後、鬼の女の次に背の高い女が自身の足元を見下げて不気味にゆらゆらと揺れている。片手には当人の背丈と同じほどの大鎌を持っているものの、それを握る手は震えていて刃物を振るう力があるようには到底思えない。
「ウチからも、おねがいだ、このままじゃ、四人そろって餓死、しちまう、せめて、このコの分、だけでも」
震え声の死神のような女。その足元、彼女の視線の先、一際幼い小さな影。三人で構成された壁に隠れるように、顔だけひょこっと出して力なき不安気な表情でこちらを覗いている幼女。腰からにょろりと伸びた触手の先端には鋭利な黒色の石片が月光を湛えており、同様の三角形の石片が前頭葉付近に二つ生えている。二人のどちらも瞳孔の形状が幾何学的な図形だ。死神の瞳孔は十字、幼女の瞳孔は縦一文字にそれぞれの黒目を分割している。
無我夜は、彼女らの図形の眼から目を離せないで、しばらく佇んでいた。しかし瞳孔の形状の異常が、彼の目を捕らえて離さないわけではなかった。空虚な眼だ。大盤の月は世界を平等に、昼のように照らしているというのに、彼女らの眼に光は全く入っていない。外界の有象無象を酷く畏れているような、酷く憎んでいるような、死体のように冷え切っていて、かつ極度の高揚で昂っている、そんな眼を、彼は見たことがある。
「入れ」
戸を最後まで開け切って、彼女らに背を向けて店内へ戻っていく無我夜。四人は鳩が豆鉄砲を食ったような拍子抜けな顔をして、しばらく顔を見合わせていた。遠ざかる黒い背中に、鎌の女が弱弱しく声を掛ける。
「本当に、いいのか、おれら、こんななのに」
彼女の声に振り返る。いつもの無表情のまま、平坦な語調で言う。
「客に料理を提供するのは当然だろ。ここは店なんだから」
再び踵を返してキッチンの方へ向かう無我夜。その背中を、彼女らは見つめている。
「……ありがとう」
そう、一言だけ零して、四人は店内へと恐る恐る足を踏み入れた。暖かい潤った空気。その奥に、深い薫りが漂っている。落ち着かないように、店内を見回す四人の元に、無我夜はキッチンから水入りのピッチャーとコップを運んでくる。
「好きなところに掛けてくれ━━ん、お前、浮いているのか。座れなさそうだな」
「あ、あぁ……」
先程は先頭の二人に隠れて見えなかったが、この死神のような女は完全に空中浮遊し、この店内の空間をゆらゆらと遊泳していた。遠慮がちに付近にあった椅子を引いてぞろぞろと腰掛ける死神以外の三人のところにコップとピッチャーを並べ、机上の空いているスペースにもう一つ、コップを配置する。
「じゃあ、お前は楽にしていてくれ。水でも飲みながら少し待っていろ。ああ、毒は入っていない。安心してくれていい」
そう話しながら、ガラスの方へ向かう無我夜。カーテンを下ろし、ガラス戸に掛けてある板の「OPEN」の字をこちらへ向けると、そのままキッチンへ吸い込まれていった。テーブルに取り残された四人。何度も腰を浮かせたり座る位置をずらしたりしてじっとしていられないようだ。鬼の女がそぉっと、慎重にピッチャーの把手をまるで子供用のおままごとセットかのように指先でつまみ、机上の四つのコップになみなみと水を注いでいく。注がれた途端、鎌の女は腕の鎌の形状を変形させて器用にコップを掴み、頭から水を被るように勢いよくコップを呷る。他の三人も同様、それなりに大きめなコップに溢れる寸前だった水が、ほんの一瞬で彼女らの喉を通過して消え去る。喋ることも忘れて、彼女らは瞬く間にピッチャーごと乾かした。
氷が溶け、それすらも飲み干されて空っぽになったピッチャー。緊張しているのか、会話もせず、ただ礼儀正しくきちっと椅子に収まっている三人。死神も石片の幼女の隣で三角座りの体勢で浮いている。ふわぁ、とキッチンの方から温かな微風が彼女らの間に吹き過ぎる。それに乗って、彼女らの鼻腔を刺激する食物の匂い。咄嗟に四人はキッチンを見る。キッチンの向こう、蒸気を纏った無我夜が両手に盆を載せてフロアの方へ出てこようとしている。
満を持して顕れた盆の上の料理。食欲を刺激する香ばしい野菜と肉の匂いが、四人の心拍を上げる。テーブルの真ん中にどん、と置かれた大皿に山盛りの野菜炒めは、夜空の月なんかよりも輝いて彼女らには見えた。それぞれの身体の正面に、火山のように白煙を立ち昇らせる山盛りの白ご飯が登場する。
「待たせたな、野菜炒めだ。飯もおかずもおかわりならあるから、好きなだけ食べるといい。今、水も持ってくる」
取り皿を配り、多種多様な多数のカトラリーの入ったケースを最後に配置して、無我夜はピッチャーを持って再びキッチンの方へ戻っていった。生唾を呑み込む四人。お互い顔を見合わせる。もう一度、眼前の蠱惑的な料理を見つめる。鎌の女と鬼の女がほぼ同時、ガッとカトラリーに手を伸ばす。鎌の女はこれまた器用にフォークを持ち、鬼の女は粗雑に箸を握り込み、そのままの勢いで米を掻き込む。目を見開く二人。その手は止まることを知らず、野菜炒めに手を伸ばす。取り皿なんて使わず、口で迎えに行くようにがっつく。濃い目の塩味と香ばしさに起因する深い味が味蕾を貫いた直後、噛めば噛むほど野菜の甘みと肉の甘みが染み出して舌を浸す。次の瞬間、再び白米を口へ流し込む。食物の熱さを物ともせず食らい付く二人は、はふ、はふと熱された息を短く吐き出しながら小さく「美味え」「ありがてェ」と震え声を漏らした。
死神がふわふわとカトラリーケースに寄って、二膳の箸を持ってきて幼女に手渡す。更に野菜炒めを取り皿いっぱいに取って幼女の前に置く。自分の分も取ってから元の位置に戻って、幼女と顔を合わせて肯いてから二人で食べ始めた。野菜炒めを口へ入れた途端、彼女らの顔が変わる。生気が宿ったように大きく目を見開いて、白米を掬い、野菜炒めをつまみ、白米を食べ、野菜炒めを口へ放り、白米を掻き込み、野菜炒めを頬張り、二膳の箸の動きはどんどん速くなった。
先程の緊張に起因した静寂ではない、食事に夢中であるが故の沈黙。洒落たジャズピアノに、四人が料理を貪る咀嚼音や漏れた息、感嘆の声が交ざる。何度か野菜炒めと米のおかわりを繰り返して、この空間はしばらく食欲を猛烈に刺激する香ばしい匂いに満たされていた。
空っぽになった大皿一枚と茶碗四つ。深く、大きく、長く息を吐く四人。店先に立っていたときの表情とは全く異なる、恍惚として生気の宿った生きた表情だ。鬼の女が腹を摩りながら深呼吸し、おもむろにしみじみと手を合わせる。
「ゴ馳走サン━━」
目を閉じて俯く彼女の様子を見て、他の三人も続く。この言葉は形式的な儀礼的なものでは決してない。彼女らが無意識の内に行った心からの感謝だった。彼女らの行動や表情を見て、カウンター越しの無我夜は細やかに微笑んだ。
「本当に、覚えている限りで一番美味い飯だった。お前、名前は」
「無我夜。日暮無我夜だ。そういえば、お前らの名前を聞いていなかったな」
キッチンで何やら作業している無我夜は、シンクの縁に手を掛けて四人を見つめる。
「すまない、名乗るのが遅れた。おれらは『4F6』。おれがボスの鎌ヶ崎切だ」
「アタシは鬼ヶ島砂夜ってンだ」
「それで、ウチが浮島三令で、この子は刀刃冷。この子、言葉を喋るのが苦手でね、ウチが通訳してんだ」
鎌の女、鬼の女、死神の順で自己紹介を済ませ、一度会話に小休止が挟まる。ぷかぷかと浮かんでいる三令が改めて大きく息を吸う音。
「あんたの料理、うまい━━美味かったよ、ホントに。冷も美味しかったって言ってる。あんたは、ウチらの命の恩人だよ、ホントに、何て言ったらいいか」
薄茶色の液体の入った新たなピッチャーを手に、四人のテーブルへそれを運ぼうとキッチンから出てきた無我夜は、三令の言葉を遮るように重ねて口を開く。
「何も言わなくていい」
こちらへ近づいてくる無我夜に、四人の視線が集中する。
ダン。
「お前ら、人を、殺したんだな」
テーブルに置かれたピッチャーの鈍い音。一人も客のいない貸切の店内の冷え切ったテーブルや椅子の金属製の脚に響いて、鈍い振動音が先程まで美味な匂いの滞留していた温暖な空気を震わす。心臓の音が聞こえない。五人分あるはずの呼吸音が、一瞬だけびたりと一切なくなった。見開かれた眼。空っぽな図形の震える眼が、彼を見ようとする。
「な、なんでッ━━」
「俺も、そうだからだ」
図形の眼が、彼の眼を見る。夜空より暗く、宇宙より何もない、真っ黒な眼。彼の月の裏側のような眼は、此岸の何も反射しない。
「夜は長い。食休みついでだ、お前らの話を、聞かせてくれないか。子供でも飲める甘い紅茶を淹れたから、ゆっくり話してくれ。ああ、安心しろ、カフェインレスの紅茶だ、眠れなくなることはないだろう」
一見笑っているように見える無表情の無我夜。BGMのループが止まる。入店時に四人を取り巻いていた緊張とはまた異なる性質の緊張感が、彼女らの首を絞め、心臓を鷲掴む。静寂の中、彼女たちは静かに語り出す。
カーテンの向こう、大盤の月のハイビームのような光を分厚い雲が遮る。街は再び暗闇に覆われて、世界は目蓋を閉ざした。
闇の悪魔と四人の化け物の邂逅を、大盤の月が照らし出す。他者の目のない、月光からすらも秘匿された店内で、化け物は静かに過去を語り出す。
次回「宝物以上、家畜未満。」




