(十八)光、いずこにあらんや。
マールムに訪れたのは一人の女性。背を丸め、両手で自らを抱擁し、周囲を酷く警戒している。受付の方へ寄っていく足取りは、今にも崩れてしまうほど震えていた。
「ッ、あ」
詰まる息と甲高い声に、事務員は不審がることなく、超然的な薄ら笑みで返した。
「赤石綾様ですね。少々お待ちください」
そう伝えると、事務員は何やらどこかへ連絡し始める。放置された赤石は、依然として身体の震えと過呼吸のためにその両手の力を抜けず、そこに佇んでいる。その抱擁をどれだけ強めようと、努力は虚しく、身体の震えは治まらない。
トン、トン、と、蝶が二片肩に舞い降りたような感覚。振り返ると、赤石の背後に、いつの間にか、金髪の女性が聖母のような微笑を浮かべている。女性というよりも少女と称してもよいほどの低い背丈と華奢な身体から、巨大なヴェールのような、包容力のような、あたたかな雰囲気が放たれて、赤石の震えを包んだ。
「いこっか」
彼女の口から発された言葉に、赤石は自然と首肯して、二人はマールムの奥へと誘われる。マールムの中央から北西方向へ進んでいくと、少々大きめの扉が現れる。「光の間」と刻まれた金属製の扉を、軽々と押し開ける金髪の彼女。誘われるまま、赤石はそれを潜る。
白。それしか分からず、眩さで咄嗟に目を閉じる。次に目を開けると、多少目が慣れたのか、白ぼけた世界が眼前に現れる。白というより、果てしなく強い黄のような、暖色系の光が満ちる室内は、まるで外のようで、広々としていた。赤石の傍にいたはずの彼女は、いつの間にか、部屋の中央で佇んで、こちらを笑みで迎えている。
「おいで」
手招きすらせず、こちらを見ているだけの彼女。しかし、赤石の足は自然とそちらへ向かう。彼女の足元を見ると、ふかふかのクッションとマットレスが敷かれている。彼女がそこへ座るのにつられて、赤石もペタン、と崩れるように腰を下ろした。
「君にあったこと、ぜんぶ、吐きだしていいんだよ」
あたたかな後光が目に染みて、赤石は目を瞑りたい心地なのに、何故か目を見開いてしまって、その光から、物理法則に反して逆光にならない彼女から、目が離せないでいる。いつの間にか、声が漏れている。
「さとるくん、の車、ゆりかごみたいで、寝ちゃっても、さとるくん、うれしそうにしてて、あの日、あの夜。……バケモノッ、ぃ、ぃイ、バケモノッ、に、さとるくんがさとるくんがッ━━」
「そっか」
警笛のような絶叫を、聖母の身体が受け止めて、すなわち、赤石を優しくかつ抱擁して覆い隠す。
「辛かったね。怖かったね。もう戻ってこないんだ。もう帰ってこないんだ」
言葉にもならない発狂。暴れて、己を含む総てを亡き者にせんと藻掻く赤石の体を押さえ込むように、聖母は赤石の痩せ細った枯枝のような身体を強く強く抱き締める。赤石の発狂は理性の抑止のない本能による暴行だったが、その体は聖母の抱擁によって微動すらできていない。
「でも、もう大丈夫だよ。私が、ぜんぶ、忘れさせてあげる。力を抜いて。ほら、私の呼吸、聴こえるでしょう。息を吸って━━吐いて━━。私の鼓動、聴こえるでしょう。トク、トク、トク、トク、って。君と、一緒だね」
まるで聖母の身体と自身の身体が混じり合うような心地で、窮屈な筈のその感覚が、どうにも堪え難い痛撃な快感となって、赤石の体内の指の先先に至るまで、その全てを埋め尽くしていく。力が抜けて、パタンと背中から倒れてしまう。
「だから、ほら、私に、ぜんぶ、委ねていいんだよ。君は、何も考えなくていいから」
全身の皮膚から、光が、白いあたたかなそれが這入り込んで、脳を、赤子を包むアフガンのようにやわらかに包み込む。白ぼけた視界。白ぼけた思考。目と鼻の寸前、赤石を押し倒して馬乗りの聖母が微笑っている。その輪郭が、水にふやけた字のように、ぼやけて不鮮明になっていく。聖母の顔がどんどん近づく。接吻をする雌雄のような、情事に至る寸前のような、距離。額と額が、コツン、と音を立てる。跳ねる身体。
『私に、堕ちちゃえ』
視界が遠のく。意識が遠のく。記憶が、遠のいていく。入眠するように、夢に堕ちるように、とうとう、赤石の全身からは、一切の力が抜けてしまった。
超越的、完全な白の部屋には私、創造神ただ一人。過大な大扉を、ノックの一つもせず勢いよく押し開けて、金髪の小柄な女性が入室すると同時に口を開く。
「〔赤石綾に対する精神治療任務〕、終わったよ〜!」
「おお、早かったですね。それでは、光の守り人・日暮輝一名の〔赤石綾に対する精神治療任務〕の遂行を記録いたします。お疲れ様でした」
こちらを見上げる彼女は「はいはい、またいつもの定型文ね」とでも言いたげに呆れ笑いを浮かべてコクコクと肯いている。
「治療任務の遂行、いつもありがとうございます」
「ふっふっふ、もっと労いたまえ〜!」
「毎度毎度、感謝の極み‼︎ 鬼神の如き活躍‼︎ 肩を揉ませていただきます‼︎」
「ふむ、よかろう。苦しゅうないぞぉ、褒めて遣わす!」
「ははあ〜、光栄にございまする〜」
大仰にポーズを取って応えると、輝は空を貫くような痛快な声で笑い出す。
「じょーだんじょーだん! 気にしないでよ、治療任務は光の魔力がないとできないんだからさ! まあ、今回の任務は急だったからビックリはしたけど、界護団の依頼ならよくあることだしね!」
彼女の明るさに、目を細める。言葉の出ない私を不思議そうに眺めていた輝だったが、しばらくしてふと問うてくる。
「そういえば、赤石さんのパートナーが亡くなったのって、殺人事件で合ってるよね?」
「ええ、そうですが……何か気になることでも?」
問い返す私と、怪訝な表情の彼女。
「さっきさ、赤石さんが、パートナーがバケモノに殺された、みたいなことを言ってたからさ。バケモノってことは害獣にでも襲われちゃったんだっけ、って気になっちゃって。どういう事件だったんだろ」
高音域の声音である彼女が、出せ得る限りの低音で唸り始める。私は息を吸う。
「廃遊園地殺人事件。そう名付けられたそうですが、昨夜、赤石綾さんのパートナーである石川悟さんが上半身と下半身を完全に切断されて死亡したという事件がありました。犯人についてですが……あなたは探心学の人体実験騒動を知っていますか」
「あ、知ってる! というか今朝、お兄ちゃんと一緒に探心学のニュース見たよ!」
咄嗟に食い気味の返事を返してきた輝に気圧されていると、彼女はそのまま続けた。
「茎街のどっかにある実験場が崩壊して判明したって。探心学が秘密裏に何人も女の人を拉致して改造してたって聞いたし、実験場には多数の被験者のご遺体があったってニュースで言ってたよ! まさか今回の廃遊園地の件も探心学の犯行だったり!?」
すさまじい勢いでまくし立てる彼女に、つい笑いが零れてしまった。輝は私に真剣な眼差しをまっすぐ向けている。彼女に一つ咳払いをして、続ける。
「失敬。件の実験場崩壊事件ですが、実は報道では伝えられていない真実があるのです」
「真実……?」
「例の実験場の崩壊は経年劣化による自然崩壊ではなく、実は場内に収容されていた改造人間によって意図的に内側から破壊されたのです。更にはその破壊に即して複数の改造人間が逃げ出したことが分かりました。もう、お分かりですね」
彼女の見開いた目は、私の目を見ていた。
「逃げ出した人たちが、犯人」
「御名答。界護団は、赤石さんの証言と石川さんの遺体の状況、実験場にあった多数の遺体、それから同実験場の地下の隠し研究部屋から見つかった人体改造実験及び被験者についての記録資料から、犯人と思われる四人組のうちの一人の推定まで到達したと聞いています。カマキリのそれを模した両腕と、頭部及び背部から伸びた大鎌のような先端構造を持つ触手が特徴の女性、管理番号F:064、ニックネームは『鎌ヶ崎切』。他にも鬼のような怪力と額の角を与えられた女性や、常に空中に浮遊してしまう少女、黒曜石の剥片のような先端構造の尻尾を二本持つ幼女、はたまた片腕を銃火器に改造された男女など、様々な改造人間が逃げ出したという調査結果が得られたと、界護団から聞いています」
「あ、被験者の中に男の人もいたんだ」
「ええ、一人分だけ記録があったそうです」
輝は柄にもなく眉を顰めて私の話を聞いていたものの、ふと疑問を抱いたようで尋ねてくる。
「それ、私が聞いていい情報なの?」
「……伝えなくてもよいのなら、伝えたくありませんでしたが」
「え?」
「それでは私は仕事がありますので退席いたします。治療任務、お疲れ様でした」
玉座から立ち上がり、高台から段差を一段ずつ降りて、彼女の肩を掠めて大扉へ歩みを進める。冷えた把手の死んだ骨のような感触が掌に染みて足が止まる。
「次に実験体の件でお呼びすることがあれば、武器を持ってこちらへいらしてください。それでは、失礼します」
重さのない扉を潜り、喉奥から絞り出した喘鳴のような蝶番の音を聞く。閉ざされた扉を隔てても背中に突き刺さる輝の視線は遮れていないような気がして、私は一度止めた足を速めた。
暗闇の部屋、小さな満月が二つ、ふと現れる。部屋中を埋め尽くすぬいぐるみたちすら昏睡する真夜中、輝は突如目を覚ました。ぼんやりとした意識で何故目が覚めたのか追求すると、どうやら喉が渇いたらしい。口が半開きだったのか、寝る前の水分補給が足りなかったのか分からないが、いずれにせよ喉を潤すため、のそのそと亀のように掛布団から這い出てベッドを後にした。部屋の閉ざしたカーテンの隙間からは、光の一つも漏れていなかった。
手で押さえることなく欠伸をし、眠気眼をパジャマの余った袖で擦りながら自室の扉を開ける。廊下の窓から見える夜空は濃淡のない黒で、今宵は月のない夜だった。一応戸を閉めようと振り返ると、ふと隣の無我夜の部屋の扉が目に入る。
「あれ……」
開いてる。半端に開いた戸から濃密な闇が這い出て、こちらへその指を伸ばしている。廊下を見回すが、どこにも光の一光子すら見つけることができない。暗い廊下だ。肋骨の中で砂塵が舞う。ざわつく胸を押さえながら、ひた、ひたと、一歩ずつ廊下を進んでいく。歩く度に床の冷たさが、踵骨の髄の神経を刺した。
リビングの扉が開いている。半端に口を開けている。その狭間から、宵闇の粉塵が帯状に揺らぎながら這い出ている。嫌な予感で、咽頭に微細な粒子を押し込まれたような窒息に襲われる。砂嵐の胸郭外へ逃れんと藻掻く心臓の喚き声が鼓膜を叩く。扉に触れて中へ駆け込む。掌が霜焼けで痛んだ。
暗いリビング。冷え切った空気に漂う黒い砂塵。闇の中、俯いた黒い影がぬらりと佇んでいる。
「おにい、ちゃん」
ゆっくりと、こちらを見る影。暗闇に、ぼんやりと浮かぶ赤紫の三日月二つ。彼の瞳孔が闇属性の紋章の形となって妖しく光っている。裂けるほど見開かれた瞳、血走った白目を押し潰す膨張した黒目。眼だけが闇に浮かんで、表情の仔細は見て取れない。
「ごめん。起こしてしまって」
空虚な眼。何も無い。何を映すこともない眼。部屋の暗闇よりも深く、濃く、無を湛えた黒い彼の眼を、輝は見たことがある。今、眼前に佇む彼のシルエットと、まだ幼い頃の彼のシルエットが重なる。
━━ごめん。こんなことしか、できなくて。
フラッシュバックに襲われて、輝は反射的に無我夜に駆け寄って抱き締める。強く、固く、二度と離れないように。
「そんなこと、言わないで」
「━━悪い夢を、見た。夢、じゃない、あれは、記憶だ。あの、あのときの、アイツの夢だ」
「もう、大丈夫だから。私は、大丈夫だから」
無我夜の手が、そっと輝を抱き返す。そっと、しかし、彼女の存在を確かめるように。身を寄せて、彼女の肩に身を預けるように項垂れる。輝も更に強く彼を抱き締めて、二人の境界線がなくなるほどに体を寄せる。
二人身を寄せ合う暗い部屋に、どこにも光はなかった。
光があれば闇が生まれる。闇があれば光も存在する。光の悪魔と闇の悪魔は、互いが互いの存在を保証している。月もそうだ。満ち欠けを繰り返すから、それは人々を魅了する。闇の悪魔は、大盤の月を目前にして、何を想うのだろうか。
次回「月と、虫けら。」




