(一)闇、笑う。
読み聞かせる母の声が、白く反響していた。
私にそんなものは存在していないのに、不思議なこともあるものだと感じた。
──或る日、一人の手によって、世界が創造されました。元より世界には無のみが存在していましたが、創造神と名乗る者は、まず世界に有を創りました。次に地と空を創り、焱・湖・森を創り、光と闇を創りました。最後に命を創り、天地創造を終えました。
ですが、広大な世界を形作る、焱・湖・森・光・闇のバランスを一人で維持するのは、創造神とて非常に難しいことでした。そこで創造神は、それぞれを担う五人の悪魔を従者としようと思いつきました。世界中から集められた五人を迎え、創造神と五人の悪魔は、世界の均衡を保ち続ける義務を背負ったのでした……。
薄暗い部屋に一つ、暖気を纏う黒い大きな塊が微かに腹部を上下させていた。
布団から出ている頭。張り付いている肌は白く、艶やかな黒髪や黒を基調とするベッドの中でやけに目立つ。
腹部以外、一切の微動を見せない彼。命の有無さえ疑うほど動かなかった男の目蓋が、ふと開いた。まだ寝惚けているのか瞬きを繰り返している。刹那目を瞑る度に揺れる長い睫毛は、些か女性的でもあった。
少しして、彼は起き上がる。枕元の携帯をぬるりと手に取ると、画面に〔6:09〕と浮かんでいるのを確認できた。それまた少しして、振動と共に鳴り出したアラームを長らくの慣習として無意識に止めて、日暮無我夜の一日は始まる。
台所で包丁を握り、焼けたばかりで蒸気が立つ玉子焼きを優しく切る。背筋は伸びていて、先程まで少々跳ねていた黒髪も直っていた。そこに、背後からドアノブが傾く音がして、自然と振り返った。
「おはよ、お兄ちゃん」
大きなあくびをしながら扉を押し開けて入ってくる妹に、無我夜は少し微笑んだ。
「おはよう、輝。丁度、玉子サンドが完成したところだ」
兄の言葉に、未だ夢の中の輝は意識が覚醒し、目には生気と輝きが宿った。驚いたように顔を上げるのと連動して動く金髪の寝癖が愛らしい。
「本当? やったぁ! ありがとう、お兄ちゃん」
日暮輝は無我夜に促されるままダイニングの椅子に腰掛けた。見れば見るほど兄に似ている端正な顔立ちは、二人が双子であることの証明として申し分無い。持つ雰囲気は似ても似つかないが、それでもどこかで同じ感じを受けた。
机の上に並べられた玉子サンドとチョコレートの添えられたコーヒー。それ等を前にして、二人は同時に手を合わせて言った。
「いただきます」
無我夜は黙々と食べ進め、輝は幸せそうに玉子サンドを頬張る。玉子焼きと共に挟まっていたレタスの新鮮な食感が、更に脳を活性化させていく。
「輝、今日は何の授業をするんだ」
「今日? 今日はねぇ、体内の臓器について。特に魔力臓について詳しい授業をするんだ。後は、引き続き陸上大会に向けての練習かな」
無我夜はやや微笑んで労った。
輝は、付近の魔法学園中等部、保健体育科の教諭だ。他にも陸上部顧問も務めている。朝の様子からでは想像できないな、と毎回無我夜は心の中で思うのであった。
三十分程度したろうか。食器は既に台所、今はダイニングでゆったりコーヒーを飲んでいる。輝は片手に教科書を持って口の中でもごもご何か言っているようで、少し忙しそうだった。
一方で無我夜は、徐ろに空になったカップを下ろして立ち上がり、台所へ向かうと、蛇口を捻って食器類を洗い始める。手際はかなり良かった。その御陰で数分で終わらすと、再度身形を整えて、一息吐いた。
「おっ、お兄ちゃん、もう行くの?」
無我夜は頷いて言う。
「ああ、仕込みがあるからな。先に言っておく。いってらっしゃい、輝」
「うん。お兄ちゃんも、いってらっしゃい!」
それに再三頷いて、掛けてあったエプロンを巻いてから、靴を履いてから下の階へ向かった。
暖かな日差しが街を包んでいた。少し遠くの鼠色をした質素なビル街が、この日光によって、今ばかりは美しい白金に見える。比較的広い空を見上げ、無我夜は息を吐いた。
速やかに一階の店内へ戻る彼は、中途で入口のガラス戸のノブに掛けた札を〔OPEN〕が見えるように裏返していった。
カフェ「BLACK & WHITE」。彼の開けた扉には、そう記されていた。
日暮無我夜はカフェのマスターだ。自宅の下の階にて一号、二号と共に、客を最高のコーヒーでもてなしている。開店早々、早速本日最初の御客様が来店されたので、彼は口を揃えて言うのだ。
「いらっしゃいませ」
一時間後、今人気の男性ソロアイドル・A-Kaneの滾る曲の流れる店内に、客は店内の三分の一を占めている。無我夜はオーダーを受けながら微かに微笑を浮かべていた。このときばかりは営業スマイルという訳では無かった。
また、ロック系の曲の狭間で入店のベルが鳴る。顔を上げて定型文を口に出す寸前で、更に大きくて高い声が店内を走った。
「無我夜さ〜ん、今日も来ましたっ!」
「何だよ、お前か……いらっしゃいませ」
扉のところから駆けてきて、促すと同時に真っ先に定位置に腰を落とす、銀髪であどけなく幼い様子の男の子。
「ルナ、注文はいつもので良いな」
「はい! お願いします」
人懐こい笑みを浮かべるルナ。この店の、いわゆる常連客という存在だ。無我夜より四歳年下で、何だか弟のようだと毎回思いながらオーダーを受ける。ここのところ毎日来店しているが、普段は何をしているのだろうか。
調理場に戻ってコーヒーの焙煎を始めた無我夜の元へ、一号が客からの質問票を持ってくる。感謝の言葉を述べながら受け取ると、また職務に戻った。
数分後、ルナの元にいつものコーヒーを届けた後に、あの質問票の客の元へ赴く。落ち着かない様子で周囲を見ていた彼女だが、無我夜が近づくと背筋を伸ばした。
「御注文はコーヒー一杯でよろしかったですね。どうぞ、御召し上がりください」
共に差し出したチョコレート。それを視認し、案の定指摘してくる彼女に、微笑みながら言った。
「当店では、コーヒーを頼んでいただいた御客様にチョコレートをサービスしております。どうぞ、一緒に御堪能ください」
困りながらも嬉しそうに笑う彼女は、言われたとおりにコーヒーを一口飲んだあと、チョコレートを齧った。彼女の顔が、みるみる喜悦に浸っていく。
「ごゆっくり、お楽しみくださいませ」
そう言ってテーブルを去るときが、最も仕事中で至福を感じるときだ。無我夜は一人微笑んでいた。
「無我夜さ〜ん!」
そこに、あの声が。見ずとも分かる声。定位置に向かい歩き出すと、ルナは無邪気に笑っていた。
「やっぱり貴方のコーヒーは美味しいですね! どうしたら、こんなに美味しいコーヒーが作れるんですか!」
手元を見ると、余りコーヒーは減っていなかった。恐らくは良く味わって一口一口惜しむように飲んでいるのだろうと思うと、素直に嬉しかった。
「……そうか、なら良かったよ」
「あっ、今適当に返しましたよね。分かるんですよ? 冷たいなぁ」
反論しようと口を開こうとしたとき、異変に気づいた。コーヒーの水面が不自然に波打っている。ほんの僅かだが、少し不自然だ。等間隔で波打ち、その度に波の程度が大きくなっていくからだ。
「まさかッ」
最悪な事態を直感した彼は、一号二号に店は任せると伝えつつ、急いでバックヤードに駆け込んだ。
なるべく急いで階段を駆け上がり、エプロンなんかは脱ぎ捨てて、窓を開け、跳んだ。日差しの強さに眉を顰めるが、隣家の屋根から自宅の屋根の上に移動して、周囲を見回した。
予想を反さずそこに居たのは、成人男性の背丈の三倍はあろうかという二足歩行のトカゲのような動物。恐らくは奴の肩甲骨辺りからは二本角のような物が生えていて、形だけ見れば正に怪獣だった。
「矢張り、ヒフキトカゲ……。だが助かった、まだ幼体くらいか」
それでもホッと胸を撫で下ろすという訳にはいかない。
(俺は、俺の仕事を全うしよう)
幼体となると少し可哀想だが、と考えもしたものの、迷いは無かった。屋根の上の黒い彼から、黒い壁のような物が展開されていく。それは次第に地上のトカゲを囲うように、立方体の空間を創り出した。
黒い風となって、いつの間にか彼は黒い空間の中に居る。目の前のトカゲは何が何なのか分かっていないようで、舌をちろちろ出して炎の息を細く吐いていた。
彼は天高く右手を挙げた。その掌の上で、これまた黒い球状の塊が段々と大きくなっていく。そして、その塊の膨張が収まると、刹那の内、腕は撓って塊を放った。
「壊」
正に一瞬。何やら二本の背中の角を茜色に灯らせて息を吸い込んでいた様子のトカゲは、今やどこにも居なかった。一人残された彼は、また、いつの間にかそこから居なくなっており、最後には黒い立方体すら消え失せて、全ての出来事は幻だったのではないか、という錯覚に陥ってしまう。
一方、無我夜は再度、器用に窓から自宅の中へ戻って、息を吐いた。手を払って、エプロンを巻いて、息を吐いて、また下の階へ、今度は落ち着いて降りていった。
「また『守り人』がやってくれたみたいだぞ」
「『守り人』って何だよ?」
「おい、お前知らねえのか。創造神様に仕える魔力五属性それぞれ担う五人の悪魔のことだ」
「顔は公開されてないから分からないけど、圧倒的な力と魔力を持つらしいよ。今のは……闇の守り人か」
少し騒がしい店内に戻ると、先程と変わらぬ調子でルナが手を動かして招いていた。
「無我夜さん、何で急にどこか行っちゃうんですか! 今、守り人さんが大きなトカゲさんをやっつけてくれたばかりですのに……。あーあ、勿体無いなぁ。格好良かったのに」
そう言って頬を膨らませ、コーヒーを口に運ぶルナに、無我夜は苦笑を零していた。
時は経り、窓枠の中の空は夜に沈んで、楕円の月だけがポツンと孤独に苛まれていた。
「もうこんな時間なのか、時の流れは本当に速い」
ふと、携帯に浮かぶ時刻を見てそう呟いた無我夜は、今度は脱力してベッドに全体重を委ねた。彼は深く息を吐いて、今日という日を回想する。そういえば、何となく明日は特別な日であった気がするのだが、少し記憶が曖昧だ。明日は何の日だったろうか。
そのとき、右手に握ったままの携帯が、お決まりの音と共に小刻みに震え出して、些か無我夜は驚く。起き上がりつつ、画面上に浮かび上がる文字を確認した。
〔職員及びニート〕
その文字列を見るといよいよ目が開き、即座に応答を選択した。
「こちら日暮無我夜」
とだけ言うと、声が返ってくる。その声は女性の声であり、少なくとも画面上に〔ニート〕と記された存在では無いと分かると息が漏れるようだった。
『日暮無我夜様で宜しいですね。明日、午前九時までにこちらマールムへいらしてくださいとのことです。いつもどおり、ここは七時に開門致します。宜しく御願い致します』
「了解しました、輝にも伝えておきます」
失礼します、と最後に言い残して、無我夜は電話を切った。立ち上がりつつポケットに携帯を入れ、部屋を後にした。
向かったのは隣の輝の部屋。扉には可愛らしい札が掛けてある。ノックを数回して、中に居るであろう輝に声を掛けた。
「輝、ちょっと良いか」
──良いよ、開けてー。という返答は、扉に遮られて少し不明瞭に聞こえた。声が聞こえると、彼は扉を開いて中に入る。
部屋の中には大量のカラフルなクッションやぬいぐるみが溢れており、今彼女は、その隅にある学習机で勉強中だったようだ。椅子代わりのぬいぐるみごと方向転換すると、彼女は黒縁の眼鏡を掛けたまま、首を傾げた。
「どうしたの、お兄ちゃん?」
その様子に、無我夜は少し罪悪感を感じて口を開いた。
「すまない、集中していたところ悪いんだが」
そう言うと、彼女は笑いながら首を振った。側頭部で常に跳ねている髪がぽよぽよ動いて可愛らしい。
「明日朝九時にマールムへ来い、だそうだ。土曜日だから、起きなかったら起こしに来るぞ。覚えておいてくれ」
「ああ、オッケー! ありがとう、お兄ちゃん」
それに無我夜は「ああ」とだけ答えて、労ってから戸を閉めた。
自分の部屋へ戻る最中、彼は不敵に笑っていた。恐らくは、明日のことを思って。きっと、今日の何倍も楽しい、明日のことを思って。
悪魔と呼ばれる守り人。それは、この世界のどこかに五人だけ、確かに存在している。
次回「五人の悪魔、集合す。」