喧嘩
「おはようございます」
「あ、お、おはよう」
「昨日休んですみませんでした。あと、パンありがとうございました」
「あ、いえ。治ったんなら良かった」
にこりと笑った後藤さんは、少しひきつった様な寂しい顔だった。隼人くんが家に居る事を知って、ドアにパンの袋を掛けて帰ったのだろうか。心配してくれた事は嬉しい。でもそれは仕事仲間だからだろう。そんな事考えてももう、私は隼人くんと付き合う事に決めたんだから。
この人には愛している人がいるんだから。
今日の後藤さんは様子が変だった。
材料を間違えて混ぜたり、パンを焦がしてしまったり。
大丈夫かな?調子でも悪いのだろうか。最近頑張り過ぎている気がする。
「ねぇ、美沙ちゃん。後藤さん様子がおかしいんだけど、昨日何かあったの?」
やって来た美沙ちゃんにこそっと聞いた。
「昨日、利香ちゃんちにパン届けに行ってからずっとおかしいんだよ。そっちこそ、何かあったの?」
隼人くんと付き合うようになった事を耳打ちで伝えた。
「え?!本当に?良かったね!」
口に手を当てて驚いた美沙ちゃんに背中をドン!と叩かれる。恥ずかしくて顔がカーッと熱くなる。
誰かと付き合うってこんなにもドキドキするものなのか。それも年が離れた彼と。一つ一つの事が新鮮で毎日がとても楽しくて幸せだった。
相変わらず後藤さんは調子が悪そうというか、様子がおかしかった。
パートを終え、買い物袋を提げてアパートに帰るとドアの前には屈んでいる隼人くんが居る。え?寒いのに帰ってくるの待ってたの?すぐ部屋に入れ、こたつに入って貰った。
「くしゅん!」
「来るならラインくれれば良かったのに」
「だって、突然会いに行ったらびっくりするかなって」
君は本当の犬か、なんて思いながら冷蔵庫に材料を入れていた。でも会いに来てくれて嬉しい。自然に頬が緩んだ。夕飯の支度でもしようとキッチンに向かった時、後ろから温かいぬくもりに抱き締められた。心臓が瞬く間に跳ね上がる。
「寒いからあっためて」
「もう、隼人くんて甘えん坊だね」
「何それ、ガキ扱いしてるの?」
振り向くと頬を膨らませている隼人くんが居る。私にとってはガキだよ。可愛い。いつも母性本能を擽られるんだから。頭を撫でようと腕を伸ばすと、そのまま唇を奪われた。2回ほど。その度に幸せなんだと胸が満たされていく。
「ねぇ、利香さん」
「ん?」
「セックスしたい」
「へ?」
はい?今なんて?セッ?
「だめかな」
「え、な、何言って……だって、まだ、早い」
「早いとかあるの?」
「え、だって、今日可愛い下着じゃないし……」
私は何を言ってるんだ!と赤面したおでこに手を当てる。それより、今更気付く。この男は可愛い犬なんかじゃない、本能で生きてる男だったんだ。
どうしよう……心の準備が出来てないよ。
「別に下着なんていいよ」
そのままベッドまで担がれ……
私たちは初めて体を重ね合わせた。
でもそれは、とても幸せに溢れた時間だった。
私たちの交際は順調だった。夜は娘が居るので昼間だけのデートだけど、それだけでも至福を感じるそんな時間。
でも相変わらず後藤さんは元気が無かった。
娘が友達の家にお泊まりをする日に、私は隼人くんを家に誘った。初めてゆっくり出来るな、なんて事を思っていたのに……出掛ける娘と喧嘩をしてしまいイライラしてしまっていた。
「何怒ってるの?」
「別に」
「娘さんと何かあったの?」
「……」
娘が男の子と泊まるんじゃないかって、そんな事で言い合いになった。私も彼を家に誘ったりなんかして、人の事言えないのに。何やってるんだろう、私は。
「何で黙ってるの?本当に僕の事……好き?」
「え、何でそんな事聞くの?」
「だって、いつも思ってるから」
「そんなの言わなくても……」
「ずっと思ってた。利香さんが風邪ひいた日、もし先に後藤さんが来てたら後藤さんと付き合ってたんじゃないかって」
「何で私が後藤さんと……」
「今でも後藤さんの事好きなんじゃないの?!」
隼人くんの顔は悲しそうだった。そんな事思ってたなんて全然知らなかった。私がまだ後藤さんを好き?
そんなわけ……
「ほら、答えられない。もう、今日は帰るから」
悲しそうな背中を後ろからじっと眺めていた。ドアの閉まる音が静かな部屋に響く。あぁ、隼人くんと喧嘩してしまった。娘の事もあって、追いかける気にもならなかった。はぁ〜と大きな溜め息を吐いて、しばらくの間立ち尽くしていた。
そんな時、ドアのチャイムが鳴る。
隼人くん?
急いでドアを開けると、そこには後藤さんが居た。
「宮下さん、遅くにすみません。どうしても話したい事があって」
「お疲れ様です。どうぞ」
私は後藤さんを部屋へと入れた。
ソワソワしていてやっぱり様子がおかしい。何か合ったのだろうか。まさか、何かの病気とか?
「何か飲みます?」
「あ、ありがとう」
後藤さんは机に置いたマグカップを握ったまま、飲む事もなく重そうな口を開いた。
「宮下さんが風邪をひいた日、心配でパンを持って行こうとここに来たら卵屋さんの後藤くんがここに入るのを見た」
「はい」
「それからずっと君たちの関係が気になって、仕事に身が入らないんだ。それは何故かってずっと考えていた」
「はい……」
「毎日一緒に居る事が当たり前で、その時間を奪われるんじゃないかって怖かったんだ。君を奪われるんじゃないかって。近くに居すぎて気付かなかった」
「宮下さんが好きなんだ」
真っ直ぐに私を見つめた目は少し寂しそうに見えた。
立ち上がった後藤さんに後ろからぎゅっと抱き締められた。その腕は体は震えていて……でも優しい温もりを感じる。
もう色んな事が起き過ぎて頭がパニックだ。
後藤さんが私を?
後藤さんに抱き締められながら私はやっと気付く。
私が好きなのは、やっぱり……
アパートの外には隼人の軽トラックが停まっていた。