揺れる思い
お店の中に入るとその美味しそうな匂いが鼻から体中へと行き渡っていき、思わず腹の虫がなりそうだ。
隼人くんは左手を繋いだまま、店員さんに右手で二人と伝えている。
心臓がバクバクしてうるさいし、手汗もやばい。ソファー席に着くのと同時に繋いでいた手がパッと離れる。
彼が革のカバーがついたメニューを広げ、私が覗き込む。ランチメニューがいくつかあるのと、並んでいるパンも席で食べてもいいみたいだ。私は少しソワソワしていた。お店に入った時に並んでいるパンたちを見てすぐ手に取りたい、そう思っていたのだ。それだけここのパンたちは美味しそうで、可愛くてオシャレ。
二人ともメニューを決め、私はそそくさと「パン見てくるね」と言って席を立った。
トレーとトングを持ちながら、ぐるぐるとパンを一通り見て一つずつじっくり見ていく。つい職業病が出てしまうのだ。あ、これ後藤さん好きなパンだ。このデザイン参考になりそうだなぁ。あ、これも……
「何ボソボソ言ってるの?」
背後で隼人くんの声がして振り向く。
「これ参考に買おうかなって、後藤さん好きそうだし。どれも本当に美味しそうだよね。」
「ふぅ〜ん」
それだけ言った彼は私が持っていたトレーをひょいっと上げレジへと出し、また私の手を握りしめた。今度は指を絡めるように強く。
「これ、持ち帰ります」
さらっと繋いできた指が一気に熱を帯びていく。どうして手なんて繋いでくるの?からかわれてる?メガネをプレゼントするつもりだなんて言ってたし……隼人くんが何を考えているのか分からないよ、もう。
繋いだまま席に着いたら、もう頼んでいたランチが来ていた。私からパッと手を離し、隼人くんに聞きたい事を聞こうと口を開いた。
「隼人くんて何歳なの?」
「25歳だよ、利香さんは?」
「女の人に歳聞く?隼人くんに14足した数だよ」
今更恥ずかしいもなかったし、正直に答えた。一回り以上も離れてたんだな〜でも何でこんなにも気が合うんだろう。一緒に居ると落ち着くような不思議な感じ。
「利香さんは……店長さんの事、好きなの?」
食べていたパスタをぶっと吹き出しそうになる。
「ち、違うよ、何言ってるの?」
「ふぅ〜ん、違うんだ」
「それよりそのハンバーグ美味しい?パスタすごく美味しいよ」
「うん、美味しい」
嘘をついてしまった。どうして好きだって言えなかったのだろう。恥ずかしかったから?それとも隼人くんに知られたくなかったから?
隼人くんの気持ちが分からない以前に、自分の気持ちすら分からないと思った。
メガネの事がどうしてもすっきりしないまま、彼の軽トラが私のアパート前へと到着する。
「やっぱ、今度お金返すよ」
「だから、もういいよ」
「あんな大金やっぱダメだよ」
「じゃあさ、また来週休みの日にデートしない?」
「えぇ?」
「なんか予定あった?」
「な、ない、けど……」
「じゃあ決まり!」
また爽やかな笑顔が目の前に広がる。その顔に胸がきゅっとなって、また見たいなって思ってしまうのは何故だろうか。また来週デートに誘ってくれるなんて……期待をしてしまうよ。もうこれ以上おばさんをからかわないで欲しい。
「じゃあ、また……」
左手を車のドアへ伸ばした時、右頬に何かが触れた。
右に振り返ると、隼人くんの顔が至近距離にある。
え、今、ほっぺにキ、キス、した??
瞬く間に顔が赤面していき鼓動も早くなり、私は思わず右頬を手のひらで包み込んだ。
「え、な、何するの?!」
「今、キスしたいと思ったから」
「はぁ?!」
「僕さ、本能のまま生きてるから」
何それっ!本能のまま?犬かっ?!
「じゃあ!」と私は勢いよくドアを閉め、アパートに向かって駆け出した。
「じゃあ、またね!」
背中から隼人くんの声が聞こえてきたが、振り向く事なく階段をカンカン!と上がって行った。
◇◇
あまり眠れなかったなぁ……と思いながら、パン屋に向かって自転車を走らせていた。昨日買ったパンたちがカサカサと音を立てる。昨日の出来事がぐるぐると頭の中で再生し、あの笑顔も思い出してしまう。
大きなため息を吐くと、息が白く寒空へと消えてなくなっていった。
「おはよう」
「おはようございます」
厨房で準備をしている後藤さんに、パンの入った袋を持っていき中身を見せた。
「美味しそうなパンたちだね、どうしたの?」
「昨日ベーカリーカフェで買って。美味しそうじゃないですか?」
「うん、どれもおしゃれで美味しそう」
そのパンたちを手に取って楽しそうに眺めている。参考になるか分からないけど良かった、後藤さん嬉しそう。
「あ、パンオショコラ。これ、亡くなった妻が好きだったんだ」
胸がチクリ、と痛む。もう分かってるのにまた痛む。
あぁ、やっぱり辛い、辛いなとまた思ってしまう。
「わ、私もこのパン好きなんですよ。ここのパンどれも美味しそうで、ランチも美味しかったんです」
「じゃあさ、今度一緒に行こうか!」
「……え?」
ドアの方から隼人くんの「おはようございます」が聞こえてきた。
私はまた一気に鼓動が早くなった。
後藤さんの言葉のせいなのか、隼人くんの声のせいなのかは……分からない。