デートの約束
今日は家を出るのが遅くなり、寒風の中、必死で車輪を漕いでいた。なかなか娘が起きなくて、少し言い合いになってしまったからだ。最近よく娘と衝突をするなぁ。
急いで自転車を停め、すぐ制服へと着替えて厨房へと向かった。
薄暗い厨房には一つの影が寂しそうに佇んでいる。
ポケットに何かを入れ、目元を手の甲で拭っている後藤さんの姿。この姿を見るのは何度目だろう。
「おはようございます」
「あ、おはよう」
その消えてしまいそうな笑顔に胸がぎゅっと痛くなる。
奥さんの写真を見て泣いていたのだろう。
奥さんは五年前に病気で亡くなったと聞いた。ちょうどこのパン屋を始めてから一年ぐらい経った頃だ。
このパン屋にいるのもきっと辛いと思う。奥さんとの思い出がたくさん詰まった場所だから。
そんな事分かっているのに……この人に恋をした私が悪いんだ。何事にも全力で深い愛情を持っている所。あたたかな海の様に包み込む優しさ。そんな所にきっと惹かれたのだろう。でもその愛情は、もうこの世界にはいない人へと向けられている。
もう、泣かない。
「昨日のハリネズミパン良かったですけど……」
「え、まずかった?」
「何か足りないなって。クッキー生地を乗せたらどうですか?」
「クッキー生地か、少し考えてみるよ!ありがとう」
目を細めたその顔に涙が滲みそうになる。
「わ、私、粉持ってきますね!」
そのまま居ると泣きそうだったので、急いでその場を逃げ出した。厨房からは、ぶつぶつと悩んでいる後藤さんの声が背中越しに響いた。
「大丈夫ですか?僕やりますよ?」
「え?」
背後に温かな気配を感じる。
私の後ろから卵屋さんが粉を取ろうと、両手を伸ばしている様だ。突然の若い男の接近に変な声が出る。
「ひゃっ!!!」
振り向いた瞬間に、彼の腕にメガネが当たり落ちた。
「わ!ちょっと、動かないで!僕が取るから」
振り向いた先に卵屋さんの顔が至近距離にあり、心臓が暴れ出す。私を挟んで伸びた両腕は、けっこう太くて逞しい。
「はい、粉どうぞ」
「あ、ありがとう、ございます……」
グシャ
「あ、やべ」
「あーー!!メガネ!!!」
「わ、ごめんなさい!弁償します!いくら?」
「い、いいですよ!落としたの私だし」
手の中には片方が割れたレンズとフレームが歪んだメガネ。一つしかないメガネだ。今日の仕事どうしよう?
メガネが無いと全く見えないんだった。
「ほんとーにごめんなさい!」
卵屋さんが必死に何度も頭を下げている。
「大丈夫です。ただ、全く見えないから早く買わなきゃなって」
「あ、じゃあ一緒にメガネ買いに行きましょう!明日お店休みですよね?」
「は?」
「あ、予定ありました?」
「え、な、ないけど」
「じゃあ決まり!」
え?メガネを一緒に買いに行く?この若い卵屋さんと?
それって……デ、デート?!
突然の展開に頭が真っ白になり、手汗をかいた手のひらで制服の端をぎゅっと掴んだ。
「宮下さんメガネはめてない方がいいのに。すごい美人でびっくりした」
「はぁ?」
「じゃあ、明日」と言ってお店を出て行った彼の表情は、全く見えなかったから分からない。でも今の私はきっと目が点になっていて、頬が赤かったに違いない。