片想い
〝こびとのパン屋〟は朝、8時openだ。
店内中、焼き立てのパンの匂いが漂っている。
毎日この匂いを嗅ぐのが好きで、幸せな気持ちでいっぱいになり心がほわっと温まる。でも今日は、なぜか開店準備に集中出来ずにいた。
さっきのあれがあったからだ。
今まであんな事はなかった。一緒に成形や準備は毎日していたのに、今日に限って何で……後藤さんは手を握ってきたのだろうか。握ったわけじゃなくて、やり方を教えてくれただけなんだろうけど。
それか、私の気持ちに気付いていてわざとやったのだろうか。いや、彼はけっこう天然の所がある。きっと気付いていないはず。
心臓はまだバクバクうるさいし、顔中は熱いし、もう、どうしていいのか分からない。厨房からはいつもの鼻歌が聞こえてくる。そんな彼に対して大きな溜息が漏れた。
そんな時、肩をポンッと叩かれる。
「ひゃっ!」
「おはよ、利香ちゃん」
「あ、美沙ちゃん」
「顔赤いけど大丈夫?店長に何かされた?」
「や、いや、あ、大丈夫」
接客専門のパートの美沙ちゃんだ。同じ歳だから仲が良く、休みの日に時々ランチに行ったりもする。
私が後藤さんを好きな事も知っているのだ。
「み、美沙ちゃん、後藤さんがさ……」
「宮下さーん!こっち来てー!!」
「店長呼んでる!ほらっ!」
ニヤリと笑った美沙ちゃんが、今度は両手で背中を押してくる。
「後でLINEするね!」
厨房へと戻ると、さっきの事は全然気にもしていない彼がハリネズミパンをこちらに見せて笑っている。
「チョコで目とか書いたんだけど、ハリネズミに見える?」
形は可愛いが、目が離れすぎていてハリネズミには到底見えない。
「こうしたらどうですか?」
自分の想像のハリネズミをチョコで書いて見せた。
「可愛い!凄い!宮下さん!」
後藤さんがすごく喜んでくれている、嬉しい。適当に書いたハリネズミなのに。あーもう、今日はもうお腹がいっぱいだ。
「宮下さん、顔赤いよ?熱あるんじゃない?」
彼の右手が私のおでこへと伸びてくる。
ちょっと、もう、今日は勘弁して下さい。
あ、あなたのせいですよ!と言いたいのを我慢して、それ以上触れられるのを拒否する様に「大丈夫です!」と言い、そそくさと休憩へと入った。
「お疲れ様でした!」
11時、私の仕事の終わる時間だ。今日はいつもと違う気持ちで自転車へと跨り、思い切り車輪を回した。
カゴの中で、袋に入ったパンたちがカサカサと躍る。
握られた右手はまだ熱を帯びている気がするが、こんな浮かれた気持ちに行き場が無いのはもう分かっているんだ。
よく分かっているはずのに……。
どうして、期待などしてしまうのだろう。
涙が目を滲ませて、視界が揺らいでしまう。
頬に当たる冬風が私の心を少しずつ切りつけていく気がする。
片想いなんて辛いだけ、それは本当の事だ。
後藤さんは、亡くなった奥さんの事を今でも愛している。