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ティンカー・テイラー ~結婚相手を殺してしまうという不吉な令嬢が チャラい亡命貴族の地位確保と引き換えに、面倒事を頼んでみました~

作者: ローズリリー

わりと正統派のヒストリカルです。

今風のサブタイトルをつけてみましたが、うまくできていますでしょうか。今人気があるものを読むと面白いなあと思うのに、流行にはついていけないのが悩みどころです。

 ちゃらそうだけど自立している男性が、たまに弱さをみせたり甘えてくるのって、あざといけれどいいよね、と思って創作してみました。エメットはいかがでしょうか? 教えていただけたら幸いです。


 フェリシティはベーカリーを出ると白い日傘を開いた。バスケットから立ちのぼるクルミパンの香ばしい匂いに、思わず笑みがこぼれる。グースベリー教会の救貧院のこども達はこのパンが大好きだ。

「みんなきっと大喜びするね!」

 フェリシティのドレスの裾にまとわりつくように歩く白猫のキティが言った。キティはフェリシティとだけ会話ができる不思議な子猫だ。フェリシティの母が亡くなった朝、グリーン家に迷いこんできてからずっと一緒にいる。

「ベーカリーのおじさんがおまけしてくれてラッキーだったわ」

とはいえ、さすがに買い過ぎたかもしれない。いつもよりたくさんのパンを抱えて日傘をさすには、ちょっとしたコツが必要だった。フェリシティは息を吸い、バスケットを持ち直した。

と、角からふいに現れた人に驚いて立ち止まった。

「きゃっ」

「失礼、レディ」

 その人は一七歳のフェリシティより少し年上くらいの紳士だった。フェリシティが倒れたらいつでも受け止められるようにと、腕を空中にさし出している。

「おケガはありませんか?」

 帽子(シルクハット)からのぞくきれいな青紫の瞳が、心配そうにフェリシティを見ている。

「いいえ、なんともありません」

良かった、と安堵の色を浮かべた微笑みは優雅で品がある。かなりの良家の生まれなのだろう。

「おいエメット、また何をしているんだ?」

 エメットの背後から友人らしき若い男性が現れた。

「よせ、ウィリアム。そんなんじゃない」

ウィリアムはフェリシティに気づくと一瞬驚いたような顔をした。もしかしてこの人も『あのこと』を知っているのかしら、とフェリシティはうつむいた。ウィリアムは「失礼しました、レディ」と山高帽のつばを上げた。

「君のようなお嬢さんが一で人こんな大荷物を運ぶなんて。宜しければ、お手伝いを」

 エメットは手袋をした手でバスケットを受け取ろうとした。

「ご親切に。でも、慣れていますから平気です」

 フェリシティは毅然とした微笑みを向けて首を振った。

「それなら馬車で送らせよう」

「え?!」

道ですれ違っただけの女性をわざわざ馬車で送らせるなど、フェリシティには微塵もない発想だ。

(もしかして、この人……)

 エメットという名前と夕闇のような青紫の瞳、洗練された立ち振る舞い。ある紳士が思い当たった。

エメット・ド・ラヴォワール。社交界では有名だ。優れた容姿に、洒落者で軟派なことで名をはせている、さる国の王族だった亡命貴族だ。

「結構です」

「どうして?」

 いくら元王族の紳士とはいえ、会ったばかりの人に馬車を用意してもらうなどできない。

「どうしてって……その、馬車では行けない場所なんです」

「馬車では行けない場所?」

エメットはふっと笑った。フェリシティは頬が熱くなった。おかしなことを言って、きっと子供だと思われたに違いない。外国の元王族とはいえ、これほど身分の高い紳士と話をしたことはまだない。フェリシティはどう答えたらいいのか混乱してしまった。

「急いでいるので、失礼します」

よけいなことを言う前に立ち去る方がいいと、フェリシティは歩き出した。

「君、まって。」

「おい、あの令嬢はやめておけ」

フェリシティの視界の端に、ウィリアムがエメットを止めているのがうつる。

「そんなことを言われたら、よけいに興味をひかれる」

「エメット、そういう意味じゃない。その――彼女は不吉な生まれなんだよ」

 フェリシティはぎゅっと手に力をこめた。

「彼女はデアドラ生まれだ」

「デア……どこ生まれだって?」

「場所じゃない、『彼女を愛した男は死ぬ』というめぐり合わせを持っているんだ」

 聞きたくない言葉が背中に刺さる。フェリシティに非はないのだから逃げる必要はない。堂々としていよう、と背筋を伸ばしたけれど、歩みは自然と早くなった。

「あっ、フェリシティ、一人で先に行っちゃダメだろ!」

 おいてけぼりをくらいそうになったキティは、あわてて後を追いかけた。


 デアドラは古い神話の悲劇の姫だ。『絶世の美貌に恵まれるが、多くの王と騎士がデアドラの為に戦い争って、命を失うことになる』という予言を持って生まれ、その通りになったことから『デアドラ生まれの娘を愛した男は死ぬ』と言われるようになったのだ。

デアドラが死んだ場所に生えたというイチイの樹は冬至を意味する。その所以から、冬至の新月の晩に生まれた女子の赤子が『デアドラ生まれ』とされるようになったらしい。

優しく芯の強かった母は、不吉な迷信を跳ね返せるようにと、『幸せ』を意味する『フェリシティ』と娘に名付けた。

けれど伝統や迷信を重んじる人々には通じない。フェリシティが年頃になってそれなりに美しく成長しても、彼女を愛そうとする物好きな紳士はいなかった。この国では女性に相続権が認められることはほぼない。実質仕事を持つことが許されない貴族の女性は、結婚以外に生活をまもる方法はないのだ。フェリシティの父は「とにかく娘の誕生をずらせ」と医者にどなったという。

たかが一晩、たった数刻の違いで一生が決められてしまうなんて理不尽だと何度も思った。それでも事実は変えられない。

フェリシティは唇をかんだ。


「レディ・フェリシティ、お帰りなさい」

 救貧院の庭で、畑に植えた野菜に水をあげていた子達がフェリシティにかけ寄ってきた。

「こら、ダメだ。お嬢様のドレスが汚れるだろ」

 泥だらけの手でフェリシティに飛びつこうとした子ども達をトーマスが止めた。十一歳で一番年長のトーマスはよく気がきき、救貧院の仕事も勉強も誰よりはげむがんばり屋さんだ。

「ありがとうトーマス、でも大丈夫よ。そうだ、今日はクルミパンを買ったのよ」

 こども達がわあっと歓声をあげた。素直な明るい声を聞いていると、胸の中にたまった泥が洗い流されるようだ。キティは子ども達にさっそく抱っこされなでまわされている。迷惑そうにしながらも、実はけっこう楽しんでいるのをフェリシティは知っている。

「フェリシティ、僕がこども達の相手をしてる間に、勝手にどこかに行っちゃだめだぞ」

 キティはずっと子猫の姿のままのくせに、自分ではフェリシティの兄気取りなのだ。

 慈善活動をするのは貴族の令嬢にとっては大切な『たしなみ』の一つだ。けれどフェリシティにとっては単なる『たしなみ』ではなかった。不運な生まれを他人事とは思えないフェリシティは、自分にできることがあるのならばと、一生懸命につくしていた。周囲の人達には「結婚が難しい令嬢の価値ある暇つぶし」と、哀れみのこもったまなざしを向けられていることも知っているが、そんなことは関係ない。

 フェリシティは畑の隅に咲いているスミレをそっとつんだ。清潔な甘い香りがふわりと広がる。花言葉は「小さな幸せ」だ。

(人と同じ幸せが、私の幸せとは限らないもの)

 フェリシティはスミレを徽章のように襟元に挿した。


「遅いわ」

 グリーン家に戻ると、継母のスーザンが恐い顔で待っていた。スーザンはまだ三十歳になったばかりで、父とはかなりの年齢差がある。若いのに、とにかくやかましい。時には自分の夫もそっちのけでフェリシティの将来、つまり結婚の心配をして世話をやいている。子爵とはいえ、父にはドレスや作法などの相談はできないのでスーザンの助言は確かにありがたい。けれど少々煩わしいときもある。

「さあ、晩餐の準備をするわよ」

「えっ、もう? ずいぶん早くない?」

フェリシティは時計を見た。晩餐まで、まだ二時間ある。

「何を言っているの、今日はジェームズ様が来るのよ? 念入りに仕度しないと」

 とたんにフェリシティは気分が暗くなった。

 ジェームズ・マクレア。マクレア家は祖父の代からつき合いがある。幼い頃に何度か遊んだけれど、ジェームズはキティを棒で追いかけまわしたりとにかく意地悪ばかりするので、フェリシティは彼が好きではなかった。

 侯爵家の跡取りだが女性にだらなしく、その上ギャンブル好きでマクレア家の財産を使い込んで勘当寸前、というのは有名な話だ。グリーン家は爵位はそれほど高くないが、領地から石炭が豊富にとれるので財産がある。ジェームズが花嫁の持参金目当てなのはミエミエだ。フェリシティをたずねてくる男性は、そんな背に腹を変えられない事情を抱えた紳士ばかりだ。

はっきり言って猛烈に会いたくない。

「彼の状況なら、ジェームズは私が泥まみれでも気にとめないと思うけど」

「そのジェームズにさえ断られたら、あなたもう社交界で生きていけないわよ」

思わずため息がでた。

「若い女性がそんなため息をつかないのよ。縁起でもない」

 スーザンは木製のテーブルを指で軽く叩いた。木に触れると不運が消え去るという迷信だ。その木にまつわることが原因でフェリシティは苦境にいるというのに、皮肉なものだ。

「サラ、しっかり頼むわね。フェリシティを慈善事業家にするわけにはいかないの」

「はい奥様」

 メイドのサラはもちろんとばかりに力強くうなずき、スーザンに従ってフェリシティの部屋へ向かった。

「自分の家なのに、自由に呼吸もできないなんてね」

 ロビーに残されたフェリシティは、キティと一緒に思いっきりため息をついてやった。

スーザンと父が再婚したのはフェリシティが十歳の時だった。年齢的にも母というより「お姉さん」という方が近く、明朗で華やかなスーザンは自然に仲良くなることができた。けれどフェリシティのデビュタントが近づくにつれ、母娘の関係には段々ズレが生じ始めた。昔はなんでも相談できたのに、今では何を話しても「子供じみたことを言わないで」と一蹴されてしまう。

「ねえフェリシティ。僕はお腹が痛いから、今日はもう休むよ」

 キティは申しわけなさそうに言うと、あっという間にどこかに隠れてしまった。仮病などではなく、本当に具合が悪くなってしまったのだろう。無理もない。フェリシティだって風邪でもないのにひどい頭痛を感じるくらいなのだから。


 ジェームズは想像の三倍くらい嫌な紳士に成長していた。家柄と少々容姿がいいのを鼻にかけ、やたらと気取りまくる姿は滑稽で痛々しささえ感じる。

(家にいるのに猛烈に帰りたいわ。)

 どしゃ降りの雨の中、野外で晩餐会をしているような気分だ。バカらしいにも程がある。

「フェリシティ、君がこんなに綺麗なレディになるなんて。愛されるべきか、愛されずにおくべきか、それが僕には大問題だ」

(あいかわらず、何を言ってるのかしら)

 おそらく失礼なことを言われているというのはわかるのだが。

「それってどういうことなの? ジェームズ」

「ハムレットとオフィーリア、ロミオとジュリエット。運命の恋はいつも身近にある。僕達は幼い頃から結ばれることが決まっていた、ということさ」

「へ、へえ、そう……」

 答えをきいたら謎が深まってしまった。

「まあ、ジェームズ様ったら。本当に知的だこと」

父は苦笑い、食堂にスーザンの笑い声だけがむなしく響きわたる。

「いえ、実は友人の受け売りです。大学の友人はユーモアのあるやつが多くて」

 友達も似たりよったりらしい。フェリシティは周囲にわからないよう小さくため息をついた。

こんなことが一体いつまで続くのだろう。ワイングラスに映った夕闇に、昼間通りで出会ったエメットの姿が浮かんだ。

 昔から、フェリシティに親切にしてくれる男性はあまりいなかった。フェリシティが笑顔を向けると、皆気まずそうに目を伏せるのだ。

けれどエメットはフェリシティをまっすぐに見つめていた。彼はフェリシティがデアドラ生まれだと知っていても、やはり親切に接してくれたのだろうか。

(気にしない人がいる、なんて期待するのはやめなきゃ。彼は単にとても優しい人なのよ)

 フェリシティは毒を飲むようにワインを飲み干した。

「ねえジェームズ。私があなたを愛するか愛さないか、『ユーモアのあるお友達』と勝負したら? 今まで負けた分をぜんぶ取り返すチャンスよ」

「え?」

「失礼するわ、昔あなたがさんざんいじめたキティの具合が良くないの」

「フェリシティ!」

 怒ったスーザンの声が響く。そういう手もあったか、とつぶやくジェームズを置いて、フェリシティは食堂を出た。


      *


 エメットが屋敷に戻ると、執事が封筒を運んできた。

「ノーランザー伯爵夫人から、舞踏会の招待状が届いています」

「ありがとう」

 ノーランザー伯爵夫人は絡まれるとしつこいので少々やっかいな存在だ。しかしだからといって招待を断るわけにはいかない。元王族とはいえ、幼少の頃のかすかなツテを頼って亡命した貴族など、社交界では立場があってないようなものだ。

 領地からの収入を絶たれ、ほとんどの亡命貴族はあっという間に没落してしまう。エメットがいまだに『紳士』でいられるのは、亡命先のこの国と、祖国が敵対関係にあることが大きい。つまりは『なにか』の交渉材料になるのではと、飼い殺しにされているのだ。

 王宮で身に着けた社交術で、せいぜいうまく立ち回るしかない。

「お返事はどうなさいますか?」

「出席する、と」

「かしこまりました」

「エメット様、お召替えを」

 従者のカルドがエメットの手袋を外すと、エメットは街ですれ違った小さなレディを思い出した。

 突然話しかけられて動揺しながらも、毅然とした態度を保っていた。

「カルド、デアドラ生まれって知っている?」

 まだ十五になったばかりのカルドは、唐突な質問に少年らしいしぐさで首をかしげた。

「はい。故郷の村に一人、デアドラ生まれの女性がいました」

「それで?」

「デアドラ生まれらしく美人でしたが、長く恋人ができませんでした。それでもある冬に、歳の離れた鍛冶屋と結婚しました」

「へえ。それは良かった」

「ですが、鍛冶屋の主人は翌年の冬に流行病で死んでしまいました」

「それは単なる偶然だよね。流行病なら、死んだ者は大勢いたはずだ」

「そうですね。おっしゃる通りです」

「でも、村では『やっぱり妻がデアドラ生まれだから』と噂になった、ということか」

「はい」

「この国の人の考えることは不可解だな。そんな理由で美人を放っておくなんて。僕なら絶対にそんな非合理的なことはしないのに」

 大げさに肩をすくめたエメットにカルドは笑いかけ、はっとしたように眉をひそめた。

「エメット様、もしかしてデアドラ生まれの女性に出会われたのですか?」

「ああ、まあね。どうしてわかった?」

「いままでのエメット様の言動から、なんとなくそう思っただけです」

エメットは苦笑した。

「僕はそんなにわかりやすいかな」

「そんなことは……いえ、特別な女性に関してはそうかもしれません」

「彼女とはたまたま街ですれ違っただけだよ」

 テノール歌手のウィリアムは職業柄、社交界に詳しい。彼女の名前はフェリシティ・ジョージ・グリーン、子爵家の一人娘ということだった。

 華奢な背中をせいいっぱいのばして虚勢をはっている健気な後姿が、頭からはなれない。迷信のせいで彼女に近づく男はいないのだろう。自分の魅力にまったく気づいていない様子だった。

「つまらない迷信のせいで、つらい思いを」

「え? 申し訳ありません、もう一度お願いできますか?」

「いや、なんでもない」

(人にかまっている身分じゃないな)

むやみに他人に干渉するのは危険だ。両親はそれで失敗したのだ。エメットは自嘲するような薄笑いを浮かべた。


 が、エメットはバターをたっぷり使った大量の焼き菓子と、ピオニーの花束をたずさえてグースベリー教会の救貧院の前に立っていた。

 美人で興味深いとはいえ、しつけが良く身持ちがかたそうな上にやっかいな事情を抱えた令嬢に会いに行くなど、さすがに自分でも少々あきれたが、行かずにはいられないので仕方がない。

 カルドが門扉を開けようとすると嫌な音を立てて傾きながら開いた。この救貧院の経済状況はどうにも厳しいらしい。けれど祖国の孤児院も似たようなものか、あるいはもっとひどいものだったろうとエメットは思った。

 中に入ると、子ども達の声に混じってフェリシティとおぼしき声が聞こえた。声のする方へ進むと、庭で子ども達とフェリシティが輪を作っていた。

「ティンカー(鋳掛屋)、テイラー(仕立て屋)、ソルジャー(兵隊)、セイラー(水兵)」

 フェリシティは一言歌うごとに、子どもの頭を一人ずつなでていく。なにかのまじないなのだろうか、とエメットは首をかしげた。

「リッチマン(お金持ち)、プアマン(貧しい)、ベガーマン(物乞い)、シーフ(泥棒)!」

 子ども達がいっせいに「やったあ」と声を上げた。

「今日の当番はメアリーね」

 最後に頭をなでられた七つくらいの少女が頬を思いきりふくらませると、皆が笑った。フェリシティが子ども達に向けている笑顔は花のようで、曲がり角で出会った時のつんとした表情とは大違いだった。あんな風に笑いかけられたら、迷信を恐れる気持ちなど吹っ飛んでしまいそうなものだが。

「やあ、楽しそうだね。フェリシティ」

 エメットが声をかけるとフェリシティの顔から途端に笑顔が消えた。

「エメット。どうしてここに?」

「慈善事業は紳士の務めだよ。屋敷から一番近いここに来たんだけれど、君に会うなんて。奇遇だね」

 エメットは一番年長と思われる少年にバスケットを手渡した。

「僕の故郷の焼き菓子だよ。ガレット・デ・ロワといって、お祝いの時に食べるんだ。気にいってくれると嬉しいな」

「こんなにいっぱい……! サー、ありがとうございます」

 少年は背筋をのばして帽子を取り深いお辞儀をした。小さな子達もそれにならうと、少年の周りに集まり大騒ぎとなった。

「フェリシティ、これは君に」

 びっくりした顔のまま立っているフェリシティに花束を差し出した。フェリシティはつられたように手を出してから、すっと後ろに引っ込めた。

「いただく理由がないわ」

「それは残念。じゃあ、こうしよう」

 エメットは肩をすくめると花束を放り投げようとした。

「だ、だめよ!」

 フェリシティは慌てて受け取った。

「なんてことをするの。お花がかわいそうじゃない」

「だってこれはフェリシティの為に用意した花なんだ。君に拒まれたら、もう咲いている意味がない」

「ずいぶんキザなことを言うのね」

「君が言わせたんだ」

 エメットの言葉に、フェリシティは謎解きでもするように眉をよせた。

「待って、ということは偶然ここに来たなんてウソなのね?」

「ああしくじった、ばれてしまったか」

 エメットが大げさに嘆くと、フェリシティは先ほどの少女のようにむくれた。

「そう怒らないで。純粋に、もう一度君に会いたかっただけなんだ。そうだ、さっき君が歌っていたのは何なの?」

「歌? ああ、あれは古い数え歌よ。役割を決める時とか、何かを選ぶ時に指さししながら決めるの」

「それも迷信にもとづいているの?」

「迷信という程じゃないけれど、そんなものかもしれないわね。元々は女の子が手遊びをしながら、結婚相手がどんな人かを占ったんですって」

「へえ、おもしろいね。その歌の中だと、僕はどれになるのかな。フェリシティ、試してくれる?」

「そ、それは……占いになっていないのではないかしら」

「フェリシティさん」

 教会の中から若い牧師が出てきた。エメットが「こんにちは」と声をかけると、牧師は深々とお辞儀をした。

「ジョン牧師。エメット・ド・ラヴォワール卿がお菓子を持ってきてくださったの」

「おお、それは……。ありがとうございます。あなたに神のご加護がありますように」

 ジョン牧師は二言三言フェリシティと話すと、教会の中へ戻った。

 フェリシティが帰ると言うので、エメットは家まで送ると申し出た。

「ありがとう、でも結構です。一人で帰れますもの」

 フェリシティは毅然とした微笑みを浮かべた。

 僕にはまだ、この笑顔しかくれないのか――エメットは心の中で苦笑した。


      *


「トーマスが帰って来ない、ですって?」

 翌日、フェリシティが救貧院に行くと、ジョン牧師が青ざめた顔で待っていた。前日の夕方にどうしても急ぎの手紙を出さねばならず、お使いを頼んだのだら、そのまま戻らないというのだ。

「トーマスは規則をやぶって出歩くような子ではありません」

 ジョン牧師はよほど探しに行こうとしたのだが、教会をあけるわけにいかず、一晩中寝ずにトーマスの帰りを待っていたらしい。

「最近、街では子供が連れ去られる事件が頻発しています。あんな時間に外に出すなんてどうかしていました。もしかしたらトーマスは……!」

「落ち着いてください、まだ何かあったと決まったわけじゃないでしょう」

「それはそうですが」

「警察には連絡をしたのですか?」

 ジョン牧師は力なく首を振った。

「いま連絡したとしても、孤児が一晩帰って来なかったというだけでは、警察は動かないでしょう」

「そうね……」

 二人の間に重い沈黙が横たわった。

「私、トーマスの行きそうな所を探してみるわ」

 ジョン牧師はぱっと顔を上げかけたが、すぐに首を振った。

「いけません! あなたのような若い女性が一人で街を探し回るなんて、それこそもし何かあったら取り返しがつきません」

「大丈夫よ。まだ昼間だし、どうしても危ないところは馬車でまわるわ。それにほら、お目付け役のキティも一緒だもの」

 キティは「まかせろ」と言わんばかりに前足を上げてニャーと鳴いた。ジョンの顔がほんの少し明るくなった。

「来週になれば大主教様の所にいっているテリーが帰ってきます。そうすれば私が探しに行けますから、絶対に無茶をしないでください」

 ジョンは念を押すように言った。


 しかし、探すといっても首都であるこの街は広い。フェリシティとキティは、とりあえずトーマスが向かったはずの商工会議所に行ってみることにした。

「グースベリー救貧院のトーマス? ああ、それなら昨日の夕方ここに来たよ。牧師様の手紙を持ってね。返信はちゃんと渡してやったぞ」

 商工会議所の受付は太った腹をなでながら答えた。

トーマスは確かにここに来た。ということは、救貧院へ帰る途中で何らかのできごとがあって、まだ戻らずにいることになる。商工会議所は街の中心部にあるので人通りも多い。騒ぎがあれば誰かしらが見ている可能性が高い。

 フェリシティは広場に面した商店や市を出している人々に、トーマスを見かけなかったか聞いてみたが、彼らしき少年を見たという人はいなかった。

「ねえフェリシティ、トーマスはもしかしたら近道をしたんじゃないかな。ここにくるにはエメラルド・パークを通るより、リンべスのはずれを抜けた方が近いんだ」

「リンべスですって?」

 あまり治安のよくない地域だ。

「でも急ぎのお使いだったんだよね? 僕ならそうするなあ」

もしかしたらトーマスはジョン牧師に無事にお使いを済ませたことを早く伝えようと、道を急いだのかもしれない。

「キティ、案内してくれるかしら?」

「もちろん」

 キティは得意そうにひげをぴんと立てた。

 フェリシティは辻馬車をひろった。リンべスに入ると、急に人が減ったような気がした。

「ねえ、キティ、あなたいつもこんな場所を歩いているの?」

「いつもじゃないよ、たまに気分が向いた時だけ」

 キティは恐がりのくせに妙に大胆なところがある。危ないことはやめさせなきゃ、とフェリシティは思った。フェリシティは馬車の中から辺りを注意深く見まわした。キティもひざの上で背のびをして探す。

「みあたらないね」

「そうね……。トーマスを見かけなかったか、誰かに聞けるといいのだけど」

 しかし、さすがにそれは危ないように思った。なにか手がかりがあればと、祈るような気持ちで通りや角を探す。

 と、路地に入っていく背の高い少年が目に入った。帽子の後には見覚えのあるひし形のつぎあてがある。あれはフェリシティが繕ったものだ。

「キティ、トーマスだわ!」

「えっ、どこ?」

 フェリシティはキティを抱いて馬車から飛び降りると、急いで少年の後を追った。

「トーマス! トーマス、待って!」

 が、振り返った少年はトーマスではなかった。

「なんだよ、あんた。オレになんか用かよ」

 少年は背筋を曲げて不審そうにフェリシティをにらんだ。

「いいえ、ごめんなさい。人違いだったわ。ところでその帽子だけど」

 少年の眉間がぎゅっと険しくなった。

「これはオレのもんだぜ。文句があるのかよ?」

「いえ、そんなつもりはないわ。ただ、人を探していて、その帽子が……」

「ああ?」

「なんだかこわいよ。フェリシティ、馬車に戻ろうよ」

 キティが小声でうったえた。

「だめよ。トーマスのことを聞かなきゃ」

「オレは忙しいんだよ、邪魔するな」

 少年は舌打ちをして立ち去ってしまった。

「あ、待って!」

 フェリシティは急いで後を追おうとした。

「おや、お嬢さん」

 いかにもガラの悪そうな男がフェリシティの前に立ちはだかった。

「リンべスで探し物なら、あんな小僧じゃなくてオレ達が手伝ってやるよ」

 男が口を開いたのを合図に、物陰からばらばらと男が出てきた。いつから自分達の様子をうかがっていたのかと思うと、フェリシティは背筋が冷たくなった。馬車を降りたことを後悔したがもう遅い。

「いいえ、結構です」

 おびえながらもきっぱり断ると、男はにやりと笑った。

「別にあんたをどうかしようってわけじゃない。オレ達はあんたを手助けする。あんたはオレ達に心ばかりの礼をわたす。悪い話じゃないだろ」

 助けを呼びたいが恐くて声が出てこない。男は身を縮めるフェリシティのバッグに手を伸ばした。

「申し訳ないが、その人に話しかける時は僕に許可を取ってもらえるかな」

 凛とした声が響いた。男の背後から現れたのはエメットだった。なぜか地味で質素な服をまとっているが、獅子のような威圧的な雰囲気が全身からただよっている。

「なんだ、おまえ」

 男がエメットのたたずまいにひるむと、エメットは「カルド」と名前を呼んだ。エメットの影から従者の少年が音もなくあらわれ、男の腹に一撃を加えた。男はうめき声をあげるとドサリと倒れた。どうみても十五、六にしか見えないが、この従者はかなりの手練れらしい。

「ありがとうカルド。それにしてもどうにもここは埃っぽい。掃除してくれるかな。塵一つ、髪一本、血の一滴でも見逃したらダメだぞ。証拠が残ると面倒だ」

周囲にいた者達は一斉に顔色を変え、後ずさるようにして去っていった。

「フェリシティ、おいで」

「でも、トーマスの手がかりが」

「早く。さっきの奴らが仲間を連れて戻ってこないとは限らない。リンべス中のごろつきを全滅させるのはさすがに手間だ」

「わ、わかったわ」

 フェリシティはうなずくと、エメット達と走り出した。

 無事に馬車に戻ると、フェリシティは息を整えた。ブローチのようにぴったりしがみついているキティを何度もなでてやる。

 馬車が走り出し、向かいに座ったエメットは不審者が後をつけてきていないことを確認するとフェリシティに向き直った。

「こんな所で何をしていたのか知らないけど、僕がたまたま通りかからなかったらあのままどうなっていたか、よく考えた方がいいね」

「……ごめんなさい」

 フェリシティはうなだれた。目の前に立ちはだかった男の姿を思い出すと脚がふるえそうになり、涙がにじんだ。

 キティは「フェリシティのせいじゃないよ。僕が行こうって言ったんだから!」とかばったが、もちろんエメットにはただ猫が鳴いているだけにしか聞こえない。

「いいのよ、キティ。ありがとう」

フェリシティはキティを抱きしめた。エメットはため息をつき、すっとハンカチを差し出した。

「悪かった。君はこわい思いをしたばかりだったね」

 フェリシティは首をふり、差し出されたハンカチで目じりをふいた。キティも真似してハンカチの端で顔をふくと、ヒゲに触れたのかくしゃみをした。フェリシティが思わず笑うと、エメットも笑った。

「それにしても馬車でさえ襲われるような所で、君はなぜあんな連中と親しげに話をしていたの? 僕には行き先さえ話してくれないのに」

 エメットの軽口に、フェリシティはようやく肩の力が抜けた。

「実は、人を探しているの」

「誰を?」

 フェリシティはトーマスが帰ってこないことを話した。エメットは黙って聞いていたが、聞き終えると「なるほど」と目を細めた。

「それでリンべスまで探しに来たというわけ?」

 フェリシティがうなずくと、エメットはあきれたように大きなため息をついた。

「君一人でこの広い街を探すなんて無理に決まっている。警察に頼むんだね」

「警察は孤児がいなくなったということでは動いてくれないわ。それどころか、救貧院の子どもたちは素行が悪いとか何とか言って、難癖をつけられかねないの」

「だからといって無謀なまねはするものじゃない。ほら、着いたよ」

 いつの間にかグリーン家の前だった。御者に家の場所は伝えていない。

「どうして私の家を知っているの?」

「この街の美人の家はすべて知っているんだ」

「ええ? 冗談でしょ?!」

「いえ、ある意味本当です。さらに言えばエメット様は各階級の有力者のご自宅、趣味、場合によっては弱み等も把握しておいでです」

「カルド、よけいなことは言わないでいい。フェリシティ、君は社交界で有名だからね」

 フェリシティは胸がきゅっと縮むのを感じた。

「デアドラ生まれの哀れな令嬢って?」

「いいや。つんけんして愛想も可愛げもなく、時々子猫に話しかけている変人だって」

「なっ……」

 言い返したかったが自分でもその通りだと思ってしまい、フェリシティはぐっと口をつぐんだ。

「冗談だよ。むくれると美人が台無しだ」

「誰がそうさせたのよ」

 一瞬でもエメットは優しい人かもしれないと考えたことに腹が立った。

「どいてください、もう帰るわ」

「待って」

 エメットは真顔になって馬車のドアをおさえた。

「フェリシティ、君には何でもあるし、何でもできる。もっと自分のことだけを考えた方がいい」

「え?」

「さ、お父様とお母様がお待ちだよ。カルド」

 カルドは馬車を降り、フェリシティの介添えをしようと手を差し出した。

「ねえ、それならトーマスのことは誰が考えるの?」

「それは知らないよ。とにかく、人に関わるのならせいぜい自分の利益になる時だけにするんだね」

「そんなの冷た過ぎるわ」

「それが世の中だ」

「じゃ、なぜあなたは私を助けてくれたの?」

「それはね、無事に家に帰った君は、街で出会った正義の紳士についてお父様に話をする。子爵のお父様は僕に感謝を述べる。噂はすぐに広まり、僕の社交界での評判はさらに上がる」

 なんとも都合がいい流れだ。

「それがあなたの利益になるの?」

 エメットは気品ある微笑みを浮かべた。

「まあね。もし君が、お父様とは別に僕に礼をしたいというなら、キスかデートでかまわないけど」

「は――はあ?! 女王陛下の命令でもお断りするわ!」

 フェリシティは熱くなった頬を隠すように馬車を降りた。

「すっかり元気が出たみたいで良かった」

 振り向くと、馬車の窓から顔を出したエメットがにやにやと笑っていた。

「どうもありがとう、エメット。デートに誘われたことは、私の花婿探しに夢中の母には内緒にしてあげるわ」

「それはありがとう、フェリシティ。さすがにいきなり婚約前提は気が重い」

 いやな人――、とフェリシティは家に入ろうとしてふと思いついた。

「ねえエメット。自分に利益があったらあなたは人を助けるの?」

「え? まあ、そうだな。状況によるけれど」

「もしトーマスを探すのを手伝ってくれたら、あなたは英雄になれるって言ったらどう?」

「行方不明の孤児を救った異国の紳士か。どうかな、社交界向きの話じゃない。ゴシップ紙ならお涙頂戴のスキャンダルつきで載せるかもしれないけれど、それでは僕の利益にならないな」

「そうじゃないわ。国民のために活躍したあなたを名誉国民にしてくれるように、父が女王陛下に推薦状を出すの。母の祖父にもお願いしてもらうわ。お祖父様は伯爵だから、より効果があるはずよ」

 名誉国民になれば、この国に正式に帰化することができる。エメットはこの国での正式な貴族の称号を得ることができるのだ。

「名誉国民、ね」

「なかなかいい話でしょう? お願いエメット。他に頼める人がいないの」

 エメットの言う通り、フェリシティ一人でトーマスを探し出すのは不可能だ。最後は真剣だった。

「君は会ったばかりの――亡命者の僕を信用するの?」

「ええ、あなたを信じるわ」

エメットは無言のままだ。彼にとって得になるかどうか計算しているのかもしれない。フェリシティは祈るような気持ちで返答を待った。

「いいよ。交渉成立だ」

「本当に?! ありがとう!」

「でもその少年を探し出せる保証はないよ」

「いいえ、必ず見つけるわ。家だとお母様がうるさ……いえ、心配するといけないから、明日グースベリー教会でね!」

 フェリシティは踊るような足取りで家の中に入った。下僕がドアを閉めると、馬車が走り出す音が聞こえた。フェリシティの胸はまだドキドキしている。

「キティ、希望が見えてきたわ」

 キティは短い前足を一丁前に組んだ。

「エメットはだいぶ軽薄そうだけど、僕も手が離せなくてフェリシティを監督できない時があるし。探し手は少しでも多い方がいいからね」


 エメットはやれやれとつぶやいた。視界の悪い夕暮れ時に行方不明になった孤児が見つかる可能性などゼロに近い。目撃者などほとんどいないだろう。面倒事を抱えるのは信念に反するというのに、なぜ承諾したのかエメットは自分でもわからなかった。嬉しそうなフェリシティの姿に、なぜか自分の心も弾む気がしたのだ。

「エメット様、嬉しそうですね」

「そうだな、誰かに頼られるのは悪い気分じゃない。利用されるのは、うんざりだけどね」


      *


 フェリシティはいらだっていた。グースベリー教会で落ち合うはずが、なぜか商工会議所前の広場にいる。それはいいのだが、トーマス探しを手伝ってくれるはずのエメットは、フェリシティをカフェに座らせて放置したまま、少女から老婆までめぼしい女性達に話しかけている。情報を集めるということだが、はっきりいって遊んでいるようにしか見えない。

「フェリシティさん、あれでもエメット様は優秀でやり手です」

 フェリシティを警護するという名目で、同じく置いてけぼりのカルドは主人の弁解をした。

 エメットと美人の一団からひときわ大きな声が上がった。女性の一人がエメットにキスをしたのだ。

「確かにやり手なのは認めるわ」

「そういうことではなく、まあエメット様はそういう意味でもできる方ですが――」

「気をつかわないで、カルド。エメットにお願いするって決めたんだから、信じているわ。というか、信じるしかないもの」

 方法や経緯はどうであれ、最終的な目的はトーマスが無事に帰ってくることだ。が、ただ待っているだけというのはどうにも歯がゆく、フェリシティは落ち着かないのだった。

「ねえ、ここはやり手のエメットに任せて、私たちはエメラルド・パークを探しに行ってみましょうよ」

「フェリシティ、エメラルド・パークは、フットボールの試合が同時に二八五も開催できるくらい広いんだよ」

 エメットは脚を組んでフェリシティの向かいに座った。

「個人の住所から公園の広さまで、色んなことをよく知っているのね」

「本で調べられることだけさ。この国の人々の考え方や胸の中までは、異国人の僕にはわからない」

「でも、それはどこで育っても同じじゃないかしら。人の心の中なんて、誰もわからないと思うわ」

「確かに。それはそうだね」

 エメットは微笑んだ。

「トーマスらしき少年が、エメラルド・パークの方へ急いでいるのを見かけたという人が何人かいたよ。彼が帰り道にそこを通ったのは間違いないだろうね。それからトーマスの帽子をかぶっていた少年の名前はダン。エメラルド・パークの池の前で靴磨きをしているそうだ」

「すごい――! エメット、あなた本当に手がかりを探していたのね」

「本当にって、心外だな。遊んでいるだけだと思った?」

 エメットの顔が一瞬くもった気がして、フェリシティはあわてて首をふった。

「そ、そんなことないわ。あなたを信頼しているもの。でもどうしてわかったの? 私が聞いた時には、誰も何も教えてくれなかったのに」

 己の力不足を思い知らされた気がしてフェリシティは落ち込んだ。

「それは当然だよ。初めて会う相手には、人は余計なことを喋らないからね」

「あなたはあの人達と初めてじゃないの?」

「親友ってほどじゃないけれど、一応ね。普段からなるべく色んな階級の人と親しくすることにしているだけだ」

「どうしてそんな……その、あちこちに友達を増やすの?」

 異国人とはいえエメットならば、上流の中でも最上の階級に属するはずだ。普通その階級の人は労働者と親しく打ち解けることはしない。

「一方向からだけで物事を判断しようとすると、間違えたり騙されたりしやすいから。景色だって、宮殿の塔の上から見下ろすのと、下町から見上げるのとでは全然違って見えるだろ?」

 フェリシティは驚いた。そんなことを考えたことがなかった。

「例えば、悲劇生まれの君。僕が育った国なら『傾国の美女』としておおいにもてはやされるよ」

 エメットは片目を閉じて微笑んだ。

「そ……そんな風にちやほやされても、嬉しくないわ」

 口ではそう言ったが、フェリシティは胸に不思議な温かさを覚えた。


 エメラルド・パークの池の前に行くと、靴磨きをしている少年がいた。あれがダンだろう。

「昨日会った帽子の彼に間違いない?」

「ええ、顔はよく覚えていないけれど、あの帽子はトーマスのものよ」

 が、リンべスでのことを思い出し、フェリシティは身体がこわばった。

「フェリシティ、君はカルドとここにいて。僕が聞いてこよう」

「いいえ、今度は私も行くわ。トーマスには私しかいないのよ」

 フェリシティは自分を奮い立たせた。

「そこまで言うなら仕方ない。君は勇敢なんだね。でも僕の少し後ろでカルドといて。いいね?」

 エメットは微笑んだ。


「頼めるかな?」

 エメットが靴置き台の上に足をのせた。

「はい毎度。先払いでお願いできますか」

 エメットが紙幣を渡すと、ダンは困ったようにため息をついた。

「サー、悪いけど、これじゃお釣りが出せません」

「それなら、君の帽子を足してくれるかな」

「え?」

 ダンは眉をひそめた。

「その帽子をどうやって手にいれた?」

 エメットは穏やかな笑みを浮かべているが、口調には威圧感があった。ダンは舌打ちし、その場から走り出そうとした。

 エメットがダンの手首をしっかりととらえた。

「はなせよ、これはオレのもんだ」

「嘘をつくな」

 ダンはエメットをにらみつけた。カルドが素早く動いてダンを押さえつけ、一気に気色ばむ空気にフェリシティはあせった。喧嘩になって、万が一ダンに逃げられでもしたら大変だ。

「待って、違うのよ」

 ダンはフェリシティを見ると目を見開いた。

「あんた、昨日の――」

「私たちはその帽子の持ち主、トーマスを探しているだけなの。救貧院の子で、まだ十一歳なのよ」

「ふん……この帽子がそいつのもんだっていう証拠はあるのかよ」

「あるわ。その継ぎ当ては私がつくろったの。初めてだったから、あまり上手にできなかったけど」

「あんたが、救貧院の子どものために?」

 ダンはいぶかしそうに、フェリシティとエメットを交互に見た。

「これは、ひろったんだよ」

「本当か」

「本当だよ。盗みはもうやめたんだ」

「わかったわ、ダン。その話を信じる。だからどこで見つけたのか教えてくれない? トーマスは出かけたまま帰って来なくて、どんな些細なことでもいいから、手がかりが必要なの」

「……教えるから、はなしてくれよ」

 エメットはカルドに目配せで指示した。ダンは手首をさすり、ポツリポツリと話し出した。

「これは、温室の中の階段のところにあったんだ」

「適当なことを言うんじゃない。エメラルド・パークに温室はない」

「いえ、待って。そういえば子供の頃におばあ様に聞いたことがあるわ。だいぶ昔に廃屋になって、今は立ち入り禁止になっているはずよ」

「ダン、君はなぜそんなところへ行ったんだ」

「あそこには実がなる樹があるから、食べられるものを探しに行っただけだ」

「帽子の他には何かなかった?」

 ダンは首をふった。


 フェリシティとエメットはダンに場所を聞き、その足で温室に行った。温室は天井が抜け落ち壁のガラスも割れてほとんどなくなっていた。中に入ると、うらなりのリンゴやベリーがちらほら実をつけていたが、階段らしきものは見当たらなかった。

「まさか私たち、適当にごまかされたのかしら」

 ダンが嘘をついているようには思えなかったが、フェリシティは急に不安になった。

「そうだな……。なんだか嫌な感じがする。そろそろ陽が傾き始めるし、今日はもう帰ろう」

「でも」

「帰宅が遅くなれば、君は父君や母君の信頼を失うよ。明日もう一度この中をよく探そう。伸び放題のしげみの中なんかにあるのかもしれない」

 エメットの言うことには一理ある。こんな時に外出禁止を言い渡されるわけにはいかないので、フェリシティは素直に頷いた。温室を後にし、エメラルド・パークの出口に向かうと、途中に軽い人だかりがあった。見ると先ほどのダンと初老の紳士、その従者らしき人達がなにやら言い争いをしている。

 フェリシティの胸はざわついた。紳士は父の知人であるモリガン男爵だった。

「こいつ、旦那様から盗んだ財布をさっさと返すんだ」

「いいがかりだ。盗ってないって言ってるだろ!」

 ダンは従者につかまえられ必死に抵抗している。モリガン男爵はどなることはせずに「男らしく認めたまえ」とダンをさとしている。モリガン男爵が靴磨きをしている少年に因縁をつけるとは思えない。

「これは、温室の中の階段のところでひろったんだ」というダンの言葉が、フェリシティの内耳を蔓のように這う。

(ダンの言っていることは、嘘だったのかもしれない――だとすれば、トーマスはもしかしたら――)

考えるのも恐ろしい。とにかく、ダンにもう一度話を聞かなくてはいけない。

「ねえ、エメット――」

従者がダンを殴りつけようとした時、パン! と乾いた爆発音が響いた。周囲にいた人々が悲鳴をあげ、大騒ぎになった。その隙にダンは従者の腕から逃げ出した。従者は慌てて追いかけようとしたが、あまり機敏ではないらしく脚をもつれさせて転び、ダンを逃がしてしまった。男爵はあきらめたようにため息をつき、従者と共に帰っていった。

「彼の足なら手助けなしでも逃げ切れたろうけど、一応ね」

 エメットはクラッカー・ボールをかざしてみせた。地面に投げたり踏んだりすると破裂して音が鳴る花火だ。救貧院の子どもがどこからかもらって来ていたずらをしたことがあるので、フェリシティは知っていた。

「今の爆発音って、もしかしてあなたのしわざ――?」

 まさかとは思ったが、フェリシティは念のため確認してみた。

「どうかな。あのクラッカー・ボールは僕のものだけれど――うっかり彼らの足元に転がしてしまったんだ」

エメットは悪びれることなく、それが何か問題なのかとむしろ驚いたように答えた。

「いやだ、なんてことをしたの? ダンが逃げちゃったじゃない!」

 フェリシティが怒ると、エメットはすっと無表情になった。

「君はダンを捕まえる気だったのか? 彼を信じると言ったのに」

「そうじゃないけれど、彼がモリガン男爵の財布を盗んだって――」

「ダンは否定していたじゃないか」

 エメットはなぜか怒っているようだ。フェリシティはわけがわからなくなった。

「でも温室に階段はなかったし……。ダンは嘘をついたのかもしれないわ」

「確かにその可能性もある。でも階段についてはまだきちんと探していないよね」

「じゃ、モリガン男爵が嘘をついているとでも?」

「いいや。でも双方の話をきちんと聞く必要がある。君は爵位で人を判断するの?」

 エメットの夕闇色の瞳が暗くかげった。

 爵位で決めたわけではない、フェリシティはモリガン男爵を知っているのだ。彼は慈善団体に多額の寄付をしているし、救貧院の子どもたちのために毎年クリスマス・ケーキと鳥の丸焼きをふるまってくれる人だ。

「あなたはモリガン男爵を知らないからよ。彼はそんな人じゃないわ」

「君はさっきダンの言葉を『信じる』と言ったばかりだ。君の信頼はまるで粉砂糖だね。甘くて口あたりが良くて、すぐに溶けて消えてしまうんだ」

「エメット、なにが言いたいの?」

「君が信じていなくても、僕はトーマスを探すよ。約束は守るから安心して」

「変なこと言わないで。私はあなたを信用しているわ」

「ありがとうフェリシティ、とても光栄だよ」

 エメットはフェリシティを家まで送るようカルドに指示すると、二人を残して立ち去った。

(どうして急に怒ってしまったの?)

 取り返しがつかないことをしてしまったかもしれない――フェリシティの胸に焼けるような後悔が押し寄せたが、どうしたら良いのかもわからず呆然とするだけだった。


 ジョン牧師から至急来て欲しいと連絡があり、フェリシティは救貧院に行った。

「トーマスの帽子と一緒に、これが教会の扉の前に置かれていたのです」

 ジョン牧師は小さな紙切れを差し出した。それはしわをのばしたタバコの包装紙の裏に、たどたどしい文字で「トマスへ」と書かれていた。ダンは帽子を返しに来たのだ。

 ダンはモリガン伯爵の財布を盗んでいない。フェリシティは確信した。恐らく何か誤解があったのだ。

 そういうことだったのね、とフェリシティは思った。

 温室の話を聞いたとき、心のどこかでダンを信じていなかったのかもしれない。ダンだけでなく、エメットの信頼をも裏切ってしまった。

「どうしよう、ひどいことをしちゃったわ……」

 くしゃっと顔を歪めたフェリシティに、ジョン牧師はとまどいおろおろするばかりだった。

「トーマスのことは私の責任です。フェリシティさんがご自分を責めるなど間違っています」

「いいえ、そうではなくて、私……」

「フェリシティさん、もうトーマスを探すのはおやめください。あとは警察に頼みます」

 結局自分は一人ではなにもできないのだ。フェリシティは悲しくなった。


「フェリシティ、やっぱりエメットにも来てもらおうよ」

 フェリシティはキティと一緒にエメラルド・パークの温室に向かっていた。とにかくダンが話していた階段を探すことにしたのだ。ダンは気づかなくても、トーマスを知っているフェリシティが現場を調べたら、何かわかることがあるかもしれない。

 人けがない廃墟の温室は不気味だったが、今さらどんな顔をしてエメットに会えばいいのかわからない。

「平気よ。他に誰もいないのなら、逆にいえば安全ってことでしょ」

「でも、オバケが出るかもしれないよ。フェリシティはこわがりだろ」

 キティは爪を立ててフェリシティにしがみついた。恐いのは自分のくせに、とフェリシティは可笑しくなった。緊張がすこしほぐれる。

 のび放題のしげみや枯れ枝にドレスを引っかけないように注意しながら、階段らしきものを探したがなかなか見つからなかった。もう一度ダンに詳しく聞いた方がいいかしらと思った時、キティがフェリシティを呼んだ。

「ねえここ、地面に階段があるよ!」

 床にはられた敷石がずれてぽっかりあいた穴から、地下に続く階段があった。

「キティ、あなた大発見よ!」

「この中からトーマスの匂いがするよ」

 キティは小さな鼻をひくひく動かした。ひんやりした風が吹き上げ、のぞき込んだフェリシティの髪とキティのヒゲを揺らした。なぜこんなところに来たのかはわからないが、トーマスは誤ってこの穴に落ちてしまったのだろうか。

「ケガしてるのかも。血の匂いもする」

 躊躇している暇はない。フェリシティは深呼吸をした。

「さあキティ、行くわよ」

「お嬢さん、こんなところで何をしているのかな?」

 男の声に呼びかけられた途端、薬品くさい布で呼吸をふさがれた。フェリシティは目の前が真っ暗になった。


      *


 エメットは下僕に食事は不要だと告げ、代わりにブランデー入りのお茶を用意するように言った。

「エメット様、さしでがましいのですが」

 カルドはためらいながら心配そうに切り出した。

「食欲がないわけじゃないよ。鴨肉の気分じゃないだけだ」

「いえそうではなく、書類が逆さまのようですが……」

 エメットはため息をつき、書類をテーブルの上に置いた。警察庁にいる知り合いのアンドリューに、頻発している誘拐事件のことを聞いたのだが成果はなかった。エメットは自分でもトーマスの行方を調べたが、目立った情報は得られていない。あとは雇った探偵に期待するしかないのかもしれない。

 十三歳でこの国に亡命してから、面倒事には極力かかわらないようにしてきた。いつもだったら人探しなど決して引き受けなかった。フェリシティのまっすぐな信頼が嬉しくて、思わず承諾してしまったのだ。

 その結果がこれだ。彼女にとっても、しょせん自分は『便利な異国の浮草』にすぎなかったのだろう。大して損はしていないが、なぜか食事がおいしくなくなった。

「他に連絡は?」

「ございません。帰り道、フェリシティさんはとても落ち込んでいました」

「探偵からの連絡だよ。元気がないなら、無茶をする心配がなくて安心だね」

 エメットは運ばれてきたお茶を飲んでから(いや、本当にそうだろうか)と思った。エメットに相談しづらくなって、フェリシティはまた一人と一匹でトーマスを探しているということはないだろうか。考えれば考える程その可能性が高いという気がする。エメットは嫌な予感にいてもたってもいられなくなった。

「カルド、出かけるぞ」

「かしこまりました」


 エメラルド・パークに着くと、エメットは馬車を飛び降りて温室に向かった。

「フェリシティ! どこにいる?!」

 温室に駆け込んだエメットは大声で呼びかけたが、ぞっとするほど静まりかえったままだ。エメットは耳を澄ませ、人の気配がないかを確かめた。と、かすかに猫の鳴き声が聞こえた。とっさに、フェリシティが連れていたキティという子猫だと思った。

「キティ、いい子だからおいで。どこにいるの?」

 エメットはできる限り優しい声でキティを探すと、しげみの中から毛糸玉のようなかたまりが転がり出てきた。エメットは手を伸ばして抱き上げた。キティは穴ぐらから這い出して来たかのようにところどころ汚れている。子猫がいるのに飼い主の返事がないというのは妙だ。フェリシティはエメットを避けて、どこかに隠れているのだろうか。

「キティ、緊急事態なんだ。君の主はどうしたの?」

 エメットが喉をなでてやると、キティは一瞬きもち良さそうに目を閉じたが、すぐにエメットの腕から飛び降りると服の裾をくわえてひっぱり始めた。

「なに? こっち?」

 キティは道案内をするように走り出した。エメットとカルドが後を追うと、キティはシダが生い茂った陰にある敷石の一つを引っ掻いた。この石がどうかしたのかと聞きたいが、子猫が答えるわけがない。エメットは手袋をはずすと注意深く敷石を調べた。きっちりと並べられた隙間から、わずかに風が吹き上げているのがわかった。

「カルド、この敷石をどかすんだ」

「はい」

 カルドは頷き、敷石の隙間にナイフを差し込んで動かした。見た目より軽々と動いたそれは、地下へ続く隠し階段の入り口になっていた。ダンが話していた階段というのはこれだったのだろう。

「エメット様、私が行ってみます」

「気をつけろ。何かあったら合図をして、すぐに戻るんだ」

 カルドは少年らしい細身の身体で難なく下へと降りて行く。一〇分ほどでカルドはもどってきた。

「この階段は頻繁に使われているようです。使ったばかりのロウソクが壁に置いてありますから。はっきりとはわかりませんが、そこそこの広さがありそうです。奥の方には複数の人間がいる気配がします」

 エメットの全身に緊張が走った。仮にフェリシティが自らこの地下室へ入ったのだとしても、そのまま出てこないでいるのであれば、彼女の身に何かよくないことが起きたと考えるのが妥当だ。もし連れ去られたのだとすれば――。エメットは内ポケットに入れた短銃を確かめた。

「これは名誉国民になって帰化するだけじゃ割に合わないね」

「やめるのですか?」

「まさか」

 エメットは不敵な笑みを浮かべ、カルドにアンドリュー警視を呼んでくるように指示をした。

「キティ、君はここで大人しく待っているんだ。いいね?」

 白い子猫はエメットに答えるようにニャアと鳴いた。


      *


 気がつくと、フェリシティは冷たい石床の上に寝かされていた。辺りはとても薄暗く、ロウソクが一本ともされているだけだった。起き上がろうとしたが全身が鉛のように重く、その上手首を縛られていて無理だった。一瞬混乱したが、温室の地下階段の入口で襲われたことを思い出した。おそらくそのまま地下室へ連れて来られたのだろう。

(キティはどうしたのかしら)

小声でキティを呼んでみたが返事はない。うまく逃げたのならといいけれど、ひどい目にあわされているのではないかと心配になった。

「猫なら逃げちゃったよ」

 声のする方に目をこらすと、十三歳くらいの少女が座っていた。

「あなたは?」

「デビーだよ。あんたみたいなお嬢さんも人さらいにあうんだね」

「人さらいですって?!」

 目が慣れてくると、まるで牢のような部屋に五、六人の子ども達がいるのがわかった。皆足かせをつけられ、ぐったりした様子で座り込んだり寝転がったりしている。デビーはフェリシティが起き上がるのを手伝ってくれた。

「あたしは市場から帰る途中で、知らない男達に道を聞かれたんだ。そのまま無理やり馬車に乗せられて、ここに連れて来られてたんだ。多分、一週間くらい前だと思う」

デビーは暗い声で自分が知っていることを話してくれた。さらわれてここに集められた子達は、船で外国に連れていかれるらしい。

「なんてことを、それって人身売買じゃないの!」

「そうだよ」

「そんな……!」

 フェリシティは恐ろしさに脚が震えた。

「ねえ、トーマスという男の子を見なかった? 背が高くて、髪は黒でとび色の瞳をしているの」

「ここじゃ暗くて目の色なんかわかんないよ。でもさっきあんたが運ばれてきた時に――」

「お目覚めですか? お嬢さん」

 はっと振り返ると、入り口に男が立っていた。

「彼はあなたを見て騒いだので眠ってもらいました。今夜から長い船旅になる。ゆっくり休んでもらわないといけませんから」

 男は目深に帽子をかぶり顔を隠しているが、フェリシティにはその声に聞き覚えがあった。

「まさか……ジョン牧師……?」

 男は深いため息をついた。

「あなたはたまにびっくりするほど勘が鋭い。デアドラ生まれで世間知らずの、お嬢ちゃんだというのに」

 男はゆっくりと帽子を取った。

「ご機嫌いかがですか、フェリシティさん。あなたをここにお連れする予定はなかったのですが」

 顔を見てもフェリシティには信じられなかった。何かの間違いの可能性をあれこれ考えた。

「あなたどうして、一体ここで何をしているの? 助けにきてくれた……のよね」

 ジョン牧師は悲しそうに笑った。

「いいえ、残念ですがその逆です。救貧院の維持にはお金がかかります。大勢の幸せのために、誰かが犠牲になることはやむを得ないことなのです、フェリシティさん」

 ロウソクの影に揺れるジョン牧師の穏やかな微笑は、悪魔のように不気味だった。信じられない思いにフェリシティは手足がふるえた。

「そんな、まさか……いつから、こんな恐ろしいことを?」

「今年に入ってからですよ。今夜でまだ三度目です。政府の方針が変わり、もともとぎりぎりの運営だった救貧院はどこも苦しくなってしまいました。私もずいぶん悩みました。けれど子ども達を見捨てるわけにもいきません。考えてみれば神は、富と貧しさ、健康と病を、良い心を持っていようが醜い心を持っていようが関係なく、人間にお与えになるのです。誰かがより過酷な運命を受けることになったとして、それが人々のためになるのであれば、これほど尊い生き方があるでしょうか」

「それは、正しいことだとは思えないわ」

「正しかろうと誤りであろうと、子ども達のお腹を満たすにはお金が必要なのです」

グースベリー救貧院は他の所に比べて子ども達の人数も多く、たくさんのお金が必要なはずだ。聖職者のジョン牧師は思考がゆがむほど追いつめられていたのだ。ずっと救貧院での世話をしていたのに、そんな当たり前のことに気付かなかった。

(これじゃ哀れな令嬢の手慰みの慈善事業といわれても、仕方ないわ……!)

フェリシティは無知な自分をのろった。

「トーマスを売るつもりはなかったのですが、彼にこのことを勘付かれてしまったので仕方ありません。フェリシティさん、あなたは異教の国で愛妾としてとても高い値がつくでしょう。私としても大変心苦しいのですが、救貧院のために尽くしてくれるあなたならば理解してくださると信じています。それにあなたはこの国にいない方が幸せになれると思いますよ。異教徒は『デアドラ生まれ』など気にしません。あなたを心から愛してくれる豪族を探しますから、どうか安心してください」

「そんな……そんなの絶対にいや――」

 フェリシティの目に涙がにじんだ。もう父ともスーザンとも会えずに、このまま物のように売られてしまうなど信じられない。一人で無茶をするなと言った時のエメットの怒った声が耳の中にこだまする。フェリシティがいなくなったと知ったら、きっとエメットは「だから忠告したのに」と呆れるだろう。

「その必要はないよ、ジョン牧師。彼女を心から愛する者はここにいる」

 ジョン牧師の背後にエメットが現れた。

「な、なんですかあなた……!」

「おっと、動くと十字架を掛けた胸に穴があくよ」

 エメットはジョン牧師の背に銃を突きつけていた。ジョン牧師は低くうめき、ゆっくりと両手を上げた。

「エメットさん、お互いの利益について話し合いをしませんか」

「それはいいね。法廷でゆっくりとうかがうことにしよう」

 階段の方から複数の靴音が響き、警察がなだれ込んだ。

「ジョン牧師、誘拐ならびに人身売買の疑いであなたを拘束します」

 立派な口髭をたくわえた警察官が言い渡すと、部下の警官達がジョン牧師を捕らえた。子ども達も無事に助け出された。


 エメットはフェリシティの元に来た。

「もう大丈夫だよ。キティが僕を案内してくれたんだ。かわいそうに、こんな可憐な手を縛りつけるなんて」

 エメットは痛ましそうに顔をゆがめると、フェリシティの縄をほどいた。

「どうして来てくれたの。あなたの信頼を裏切ったのに」

「さあ。どうしてだと思う?」

「……利益になるから」

 エメットは笑った。

「それもあるけれど、一番じゃないな」

「トーマスを探すのを手伝うって、約束したから……?」

 緊張と恐怖から解放されてほっとしたせいか、フェリシティは急激に眠気におそわれた。

「それもあるけれど」

 まぶたが重く下がり倒れこんだフェリシティを、エメットは優しく受け止めた。

「君のことを考えたら、いてもたってもいられなかったから」


 生真面目なジョン牧師は人身売買の詳細な記録をつけていたので、さらわれた子ども達は行方を追うことができ、ほとんどが無事に戻ってくることができた。残念ながら行方がわからなかったり、売られた先で病にかかって亡くなってしまった子もいたが――。

 フェリシティはその子供達のために祈り、教会に慰霊碑を作った。

 背後には大規模な犯罪組織があり、その一味を追う足掛かりを作ったとして、エメットは名誉国民の称号を授けられることが正式に決定した。

 一人娘を助けられたフェリシティの父が、エメットの身元保証人を引き受けたことも大きな要因となって。


 女王陛下から名誉国民称号の授与がある日、エメットがどうしても一緒に来てほしいというので、フェリシティもしぶしぶ王宮に上がった。一応命の恩人の頼みは断れない。

「どうして私も一緒に行くのよ」

「だって、これは僕達の手柄だ」

「そうかもしれないけど――デアドラ生まれの上にとんでもないお転婆だって、社交界で噂になってるのよ。これ以上目立ちたくないわ。」

「今さら一つ二つ増えたところで」

「なっ、失礼な人ね」

「あ、時間だ。じゃ、行ってくるよ」

「しっかりね、エメット」

 エメットは片目を閉じて微笑み、謁見の間へ入っていった。豪奢な大礼服はエメットによく似合い、まぶしいほどだった。やはりエメットは紛れもなく王族の生まれであり、あたりをはらうような高貴な雰囲気に満ちている。

 これでようやくエメットは欲しかったものを得ることができると思うと、フェリシティは自分のことのように嬉しかった。

(あの扉がもう一度開いたとき、エメットは生まれ変わっているのね)

 そう思うと、なぜかフェリシティはふと悲しくなった。

恐らくもう、あんな風にエメットと何かをすることはなくなってしまうだろう。父が後見人になっているとはいえ、この国での称号を得たエメットには今まで以上に人が集まってくることは間違いない。もともと社交界でも常に注目の的だったのだ。正式な貴族になれば、縁談の話もいやというほど舞い込んでくるだろう。

 喜びの中に一筋のさみしさが混じる複雑な気持ちで、フェリシティは授与式が終わるのを待っていた。

「フェリシティ!」

 大きく扉が開き、エメットがフェリシティの元にかけよってきた。

「大変だ。称号の授与資格に不足があったんだ」

「ええっ? そんなはずはないわ、きっと何かの間違いよ」

「とにかく一緒に来てほしい」

「でも、それならお父様に――」

 エメットは驚いているフェリシティの手を取り、謁見の間に連れて行った。

「フェリシティ・ジョージ・グリーンですね」

 女王陛下にお会いするのはデビュタントの時以来だ。フェリシティはしきたりに従い、膝を曲げてお辞儀をした。

「エメット・ド・ラヴォワールに、この国を守る特命をお願いしたのですが――彼は忠誠を誓う貴婦人のパートナーがいなくては、受けられないというのです」

 フェリシティは意味がわからず、顔を上げた。騎士の叙勲の際、中世時代には騎士が命を捧げる貴婦人を設定することになっていた。けれど騎士が忠誠を尽くすのは女王だということで、今の時代には行われていない。

「その貴婦人に、彼はあなたを望みました」

「え……ええっ?!」

 フェリシティは思わず声を上げてしまった。

「フェリシティ、女王陛下と国家の忠誠のために、承諾してくれるよね?」

 女王陛下の前だというのに、エメットはふざけた様子でうやうやしくお辞儀をした。突然のことにフェリシティはとまどい、女王陛下に向き直った。

「身に余る光栄です。ですが私は不吉なめぐりあわせを持っており、そのような大切なお役目に、ふさわしくありません……」

 エメットは知らないのだろうが、不吉な生まれの者を重要な立場に据えるのはこの国では忌むべきこととされている。

「エメット、どうしますか」

 女王にたずねられ、エメットは顔を上げた。

「陛下、それではこの国に古くから伝わる数え歌で『あり』か『なし』か、決めさせていただけますでしょうか?」

 フェリシティは仰天した。女王陛下の特命にまつわることを、そんなふざけた方法で決めていいわけがない。

「いいでしょう」

 が、女王陛下は静かにうなずいた。エメットは胸についた真珠飾りを外した。

「ティンカー、テイラー……」

 エメットは真珠をフェリシティと自分の手のひらに交互に乗せていく。

「シーフ」

 最後、真珠はフェリシティの手の上に乗せられた。

「僕の勝ちだ」

「勝ちって、そんな……」

「ねえ、もしかして、女王陛下の命令でもお断りだというの?」

「どうなのです、フェリシティ」

 女王が優しくきいた。

「まさか! いえ、その――謹んでお受けいたします、陛下」

「ひどいな、僕の願いでは受けてくれないの?」

 フェリシティを見つめるエメットの瞳が大きくひらいた。

「それは――」

 フェリシティは一瞬言いよどんだ。

 告げるには抵抗がある。けれど二度と間違えたくなかった。

「もちろんお受けするわ。あなたを信じているもの」

「嬉しいよ、フェリシティ!」

 エメットは満面の笑みでフェリシティを抱き上げた。

「ちょっと、陛下の前でなんてことを!」

 フェリシティは小声で怒った。

「お祝いとして大目にみましょう。エメット、あなたは幼い頃から少しも変わりませんね。二人で力をあわせ、誠心誠意国家のためにつとめるように」

 女王は目を細めて微笑み、二人に告げた。

「フェリシティ。君は、君を愛する者に幸運をもたらすめぐり合わせを持った人だ」

 エメットはフェリシティのやわらかい頬にそっと口づけた。

イギリス風の設定ですが、ティンカーテイラーの数え歌は、ほんとうにイギリスにあるのです。イギリス人と結婚した友人に、使い方を聞きました。日本でもありますよね、かみさまのいうとおり、というものが…。地域によって違いがありそうですが。今の子は使うのかな? 気になります。

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