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第99話 逃げたい

リリスは殿下の胸に額を押し当てたまま、震える呼吸を繰り返した。


その手は、カシリアの衣服の背中側を強く握りしめている。


温かい。


この温もりに包まれている今だけは、外の世界の冷たい嵐から守られているように感じる。


けれど、理性の片隅で冷徹な計算が走るのを止められない。


今の平穏は、砂上の楼閣に過ぎない。


殿下の庇護、ファティーナの誤解、それらによって一時的にエリナの噂は沈静化するかもしれない。


だが、それは時間の問題だ。


エリナは間もなく、王家学院に編入してくる。


あの太陽のような笑顔を振り撒き、無邪気な言動で周囲を魅了し、そして「タロシア公爵の娘」として正式に社交界デビューを果たすのだ。


その時、私はどうなる。


前世の記憶が蘇る。


あの時は、私にはまだ「正当な婚約者候補」としての立場があり、エリナは「突然現れた不躾な庶子」という攻撃材料があった。


だからこそ、大義名分を持って彼女を排除しようと足掻くことができた。


しかし今回は違う。


私はエリナの存在を認め、殿下もエリナといろいろ噂が広まっている。


周囲は「王太子が選んだ新しい姫君」としてエリナを歓迎し、私を「捨てられた哀れな妹」として嘲笑するだろう。


逃げ場がない。


教室に入れば、ヒソヒソという陰口が聞こえるだろう。


食堂に行けば、好奇の視線に晒されるだろう。


そして何より、エリナが無邪気に駆け寄ってくる姿を、笑顔で受け入れなければならない。


無理だ。


耐えられない。


想像するだけで、胃液が逆流しそうになるほどの嫌悪と恐怖が全身を支配する。


このまま登校を続ければ、私は確実に壊れる。


心を殺して人形になると決めたはずなのに、その人形の殻さえも砕かれ、中身の腐った肉塊を晒すことになる。


顔を上げるのが怖かった。


涙で汚れた顔を見られたくないという羞恥心と、この温もりから離れたくないという幼児のような依存心。


だが、このまま黙っていても、地獄へのカウントダウンは止まらない。


私は殿下の胸元からわずかに顔を離し、潤んだ瞳で彼を見上げた。


殿下の表情は、痛ましいほどに歪んでいた。


罪悪感、後悔、そして私への憐憫。


その目が、私に勇気という名の毒を与える。


この人なら。


私をこんな風に傷つけた責任を感じているこの人なら、私の理不尽な願いを聞いてくれるのではないか。


気まぐれな優しさでもいい。


同情でも、贖罪でも構わない。


今の私には、一本の細い蜘蛛の糸でさえ、命綱に見えるのだ。


「……殿下」


掠れた声が出た。


喉が張り付き、言葉を紡ぐのが苦しい。


「……厚かましい願いであることを、承知で……申し上げます」


カシリアは何も言わず、ただ私の言葉を待っている。


その静寂が、私を急かす。


「わたくし……学生会副会長という、過分な役職をいただきましたが……」


視線を逸らす。


彼の目を見ていられない。


「今のわたくしには……明日から、あそこへ通う自信が……ありません」


言ってしまった。


公爵令嬢として、あるまじき弱音。


責任放棄。


敵前逃亡。


父が聞けば激怒し、世間が知れば嘲笑するだろう言葉。


けれど、もう止まらなかった。


「少しでも……少しの間だけでもいいのです」


私は彼の上着の袖を掴み、縋るように力を込めた。


「学校に行かなくて済むような……誰もが納得する、言い訳を……作っていただけないでしょうか」


逃げたい。


ただ、それだけ。


エリナの笑顔を見たくない。


同情する視線に晒されたくない。


暗い部屋で一人、膝を抱えてうずくまっていたい。


そんな、惨めで後ろ向きな願い。


カシリアの身体が、一瞬硬直した。


拒絶されるかと思った。


「甘えるな」「義務を果たせ」と、正論で殴られるかと思った。


ビクついて身を縮めた私の頭に、大きく温かい手が乗せられた。


「……ああ」


深く、重い吐息と共に、肯定の言葉が降ってくる。


「分かった。……任せてくれ」


顔を上げると、そこには決意に満ちた、けれどどこか悲壮な瞳があった。


彼は理解したのだ。


私が何を恐れ、何から逃げようとしているのかを。


自分が撒いた種――エリナとの噂、そして彼女の入学がもたらすであろう残酷な未来。


それが私を追い詰め、ここまで脆弱にさせたのだという事実を、彼は正確に飲み込んだ。


「君を……これ以上、矢面に立たせるわけにはいかない」


カシリアの声は低く、そして力強かった。


「俺が作った原因だ。……俺が責任を持って、君を守る盾を用意する」


「完璧な言い訳を考える。誰も君を責められない、誰も君を疑わない、鉄壁の理由を」


それは王太子としての権力行使の宣言であり、同時に、私との契約の言葉でもあった。


「……ありがとうございます……」


安堵で、再び涙が溢れそうになる。


これで、少しだけ猶予ができる。


処刑台への階段を上る足を、一時的に止めることができる。


たとえそれが、根本的な解決にはならない、ただの先延ばしであったとしても。


今の私には、それだけが唯一の救いだった。


カシリアは私の涙を親指で拭い、その手を離さなかった。

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