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第97話 謝罪

「リリス」


不意に背後からかけられた声は、凍りついた私の世界に温かな、しかし異質な亀裂を入れた。


振り返ると、そこにはカシリア殿下が立っていた。


先ほどまでの虚ろな表情は消え失せ、その瞳には強い意志の光が宿っている。


彼は私とファティーナの間に滑り込むように歩み寄ると、私の肩にそっと手を置いた。


「……少し、顔色が悪いようだが」


その指先から伝わる体温が、ドレス越しに肌へと浸透する。


周囲の貴族たちの視線が、一斉に私たちへと注がれるのが分かった。


好奇心、詮索、そして羨望。


殿下はそれらを無視するのではなく、あえて全身で受け止めるように背筋を伸ばし、私だけを見つめた。


「ファティーナ嬢。申し訳ないが、リリスを借りてもいいだろうか。……彼女は少し、疲れが出ているようだ」


「え……?あ、はい!もちろんですわ!」


ファティーナは目を丸くし、殿下の真剣な眼差しに圧倒されたように頷いた。


「リリス様、お大事になさってくださいね。殿下、どうかリリス様を……」


「ああ。私が責任を持って休ませる」


殿下の声は、会場の隅々まで届くほど明瞭で、力強かった。


それは単なる友人への気遣いを超えた、所有宣言にも似た響きを帯びていた。


周囲の空気が変わる。


さきほどまで囁かれていた「エリナ」という名の亡霊が、殿下の毅然とした態度によって霧散していく。


『やはり、殿下の本命はリリス様なのだ』


『あの噂は、ただの戯言だったのか』


人々の思考が上書きされていく気配を肌で感じながら、私は殿下にエスコートされ、その場を後にした。


皮肉なものだ。


この完璧な「王太子妃候補」としての扱いは、私の傷口を隠すための包帯でありながら、同時に私を窒息させる鎖でもあるのだから。


私は、どう頑張っても、本当の王太子妃にはなれなかったから。


案内されたのは、休憩室だった。


重厚な扉が閉ざされた瞬間、外界の喧騒は完全に遮断され、静寂が満ちた。


豪奢なソファ、柔らかい絨毯、暖炉の中で爆ぜる薪の音。


殿下は私をソファに座らせると、使用人たちをすべて下がらせた。


二人きり。


途端に、張り詰めていた空気が緩むどころか、針のように尖って肌を刺す。


殿下は私の向かいに座ることもなく、私の前で立ち止まり、そして――深く、頭を下げた。


「……すまない、リリス」


絞り出すような声だった。


王族が、臣下の娘に対して頭を下げるなど、あってはならないことだ。


だが、今の彼にとって、身分など何の意味も持たないようだった。


「俺の……軽率な振る舞いが、君をどれほど傷つけたか。……今さら気づいた」


殿下は顔を上げ、痛みに歪んだ瞳で私を見つめた。


「エリナとの噂。……宝飾店でのこと。……全部、俺の責任だ。俺が何も考えずに彼女と接したせいで、君があらぬ疑いをかけられ、侮辱されることになった」


「本当に……申し訳ない」


その言葉の一つ一つが、私の胸に重く沈殿する。


謝罪。


それは私が最も欲していたものであり、同時に最も聞きたくなかった言葉でもあった。



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