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第95話 逃げられない地獄

「エリ……ナ、ですか?」


唇が微かに震え、喉の奥から乾いた音が漏れた。


握りしめた左手の爪が、手袋越しに掌へ食い込み、微かな痛みを伝える。


視界の端が白く明滅し、呼吸が浅くなるのを自覚しながら、私はファティーナの顔を凝視した。


不意打ちだった。


この絢爛な宴の席で、最も聞きたくなかった名前が、最も親しい友人の口から放たれたのだ。


心臓が、肋骨を内側から叩くように激しく脈打ち始める。


腹の前で優雅に組んでいたはずの両手は、今や溺れる者が流木に縋るような無様な力強さで互いを締め上げている。


白い絹の手袋の内側では、嫌な冷や汗が滲み出し、皮膚に張り付く不快な感触が広がっていた。


逃げたい。


この場から、この会話から、そしてこの現実から。


耳を塞ぎ、悲鳴を上げて走り出せたら、どれほど楽だろうか。


だが、私は公爵令嬢リリス・タロシアだ。


足元には見えない鎖が絡みつき、顔には石膏で固めたような微笑みが張り付いている。


「……」


理性が、警鐘を鳴らす。


――早すぎる。


父が認知の手続きを開始してから、まだ数日。


いくら情報通のファティーナとはいえ、平民として育ったエリナの存在を、この短期間で把握できるはずがない。


私は必死に動揺を押し殺し、扇子の隙間から彼女の瞳を覗き込んだ。


そこにあるのは、獲物を狙う狩人の狡猾さではなく、友人を案じる純粋な憂慮の色だけだった。


澄んだ鳶色の瞳には、怯えを必死に隠そうとする私の、滑稽なほど強張った表情が映り込んでいる。


(……そう、彼女は味方よ)


前世においても、ファティーナは最後まで私の無実を信じようとしてくれた数少ない一人だった。


今さら私を陥れようとするはずがない。


その事実に、一瞬だけ安堵が過る。


だが、次の瞬間に押し寄せたのは、より深く、より暗い絶望だった。


彼女に悪意がないということは、この情報が「公然の秘密」として、すでに社交界の暗渠を流れ始めていることを意味する。


胸の奥で、黒い渦が回転を早める。


まさか。


もう、そこまで広まっているのか。


私が必死に隠し、父が裏工作を行い、殿下が沈黙を守っている「醜聞」が。


答えが何であれ、ここで真実を語るわけにはいかない。


もし私が「ええ、私の異母姉です」と認めれば、その瞬間にファティーナは絶句し、やがて軽蔑と憐憫の眼差しを向けるだろう。


『リリス様は、あんな娘に負けたのね』と。


そんな屈辱には耐えられない。


「ど、どうして急にそのお話が……? さい、最近、何か噂でも……?」


問い返す声が、自分でも情けないほど上擦る。


舌が麻痺したように重く、言葉は千切れた糸のように途切れ途切れになった。


曖昧な微笑みを作ろうとした唇は、引きつった痙攣にしか見えなかったかもしれない。


ファティーナは周囲を慎重に見回した。


近くに聞き耳を立てる者がいないことを確認すると、彼女はさらに身体を寄せ、扇子で完全に口元を覆った。


それは、貴族社会における「ここだけの話」の合図だ。


「エリナに関する噂が、ここ最近、急に広まっているのです。私も人づてに聞いただけですが……」


彼女の声は、真剣そのものだった。


「あまりにも多くの方が口にするものですから。殿下や、あなた様にとっても良くない話ですし、念のためお伝えしようと思って」


良くない話。


その単語が、呪詛のように鼓膜に張り付く。


「宴の夜……エリナという少女が、ずっと殿下を待ち伏せしていて……」


ファティーナは声を潜め、まるで汚らわしい物語を語るように続けた。


「卑劣な手を使って、殿下をバルコニーに誘い出した、と。そして、殿下が楽しそうに彼女と手を取り合い、指切りまでしているのを見た、という話まで……」


――やはり。


あの日、あの時。


カシリア殿下とエリナだけの世界だと思っていたあの場所には、無数の「目」があったのだ。


王国中の貴族が集う祝賀会。


その中心である王太子の挙動を、誰も見ていないはずがない。


誰かが、カーテンの隙間から、あるいは庭園の陰から、その光景を目撃していた。


「卑劣な手」という解釈は、エリナを敵視する貴族たちによる偏見だろう。


だが、「手を取り合っていた」という事実は、紛れもない真実だ。


そして、「エリナ」という名前も。


おそらく、あの場にいた誰かが、彼女が名乗るのを聞いたのか、あるいはその特徴的な容姿から割り出したのか。


唯一の救いは、まだ「タロシア公爵の娘」という核心には触れられていないことか。


まだ、ただの「身元不明の少女」として語られている。


だが、それも時間の問題だ。


エリナの顔立ち、カスト公爵との接触、そして何より本人が隠そうともしないその言動。


点と線が繋がるのは、明日かもしれないし、数時間後かもしれない。


だが、ファティーナの告発はそこで終わらなかった。



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