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第94話 罪人

それなのに、なぜ。


「……なぜ、あんな軽率なことを……」


拳を握りしめる。


爪が皮膚を裂き、血が滲む。


殴りたいのは、昨日の自分自身だった。


あの時の自分を、この手で殺してやりたい。


「殿下が“冷たい王子”として知られていることは、社交界では有名です」


ロキナの言葉は続く。


止まらない。


「その殿下が、同行していた貴族令嬢を差し置いて、名も出さぬ少女と笑い合っていた――」


「そんな話が、広まらないわけがありません!」


ロキナの瞳から、涙がこぼれ落ちる。


それでも、彼女は視線を逸らさない。


忠義ゆえの涙ではない。


悔しさゆえの涙だ。


「私は社交界の人間ではありません。それでも、ここまで噂が届いているのです」


「殿下……社交界に生きる貴族たちは、この二つの出来事をどう結びつけると思いますか!?」


カシリアの脳裏に、残酷なほど鮮明な光景が浮かぶ。


扇子で口元を隠して囁き合う貴族たち。


好奇に満ちた視線。


そして、その中心に立たされ、無数の疑念と嘲笑の矢を浴びるリリスの姿。


心臓が、音を立てて砕ける錯覚を覚えた。


「やがて……“殿下はエリナ様を選び、リリス様を捨てた”という物語が出来上がるでしょう」


「しかもエリナ様は――公爵家の“私生女”」


ロキナの声が、悲鳴のように高くなる。


「リリス様が、どれほどの覚悟で受け入れた存在か……殿下はご存じのはずです!」


「なぜ……そんな残酷な相手を選んだのですか!」


「だからこそ、同情を集めるために、あの噂を利用したのですか!?」


彼女の糾弾は、カシリアの意図を完全に誤解していた。


だが、その誤解こそが、リリスが感じている絶望そのものなのだ。


リリスもまた、そう思っているに違いない。


カシリアはエリナを選び、リリスを捨てるための口実を作ったのだと。


「……近いうちに、エリナ様は王立学院へ入学すると聞きました」


ロキナは震える声で告げる。


「その時、殿下が彼女を“認めた存在”として見られることになる」


「……では、その裏で、リリス様はどうなりますか!?」


ロキナは、ついに膝をついた。


枯れ草の上に崩れ落ち、土に額を打ち付け、泣き崩れる。


侍女としての立場も、体裁もかなぐり捨てた、魂の慟哭。


「お願いします……殿下……!」


「どうか……リリス様だけは……」


「なぜ、あの方を、崖へ突き落とすのですか……!」


その背中が、小刻みに震えている。


彼女はずっと耐えていたのだ。


リリスと共に、リリスのために。


――違う。


そう叫びたいのに、声が出ない。


喉の奥に、焼け付くような塊が詰まっている。


カシリアの視界から、色が消えた。


全身の力が抜け、木に寄りかからなければ立っていられない。


(……俺が……リリスを……傷つけた……?)


歯を噛み締める。


ギリギリと音が鳴り、口の中に鉄錆のような血の味が広がる。


胸の奥が、物理的に裂けるように痛む。


リリスを救いたかった。


彼女の孤独を癒やし、その涙を拭いたかった。


だが、実際はどうだ。


俺の手は、彼女を救うどころか、背後から突き飛ばし、地獄の底へと蹴落としていたのだ。


エリナへの無自覚な好意が、リリスへの死刑宣告となっていた。


「……っ……」


カシリアは大きく息を吸い込み、震える肺を無理やり満たした。


「……分かった」


掠れた声で、絞り出す。


それは、自分自身への断罪の言葉でもあった。


「……この件は、必ず……責任を取る」


「……戻れ、ロキナ」


ロキナは顔を上げず、しばらく肩を震わせていたが、やがてゆっくりと立ち上がった。


その顔は涙で濡れていたが、瞳には確固たる意志が宿っていた。


「……承知しました、殿下」


彼女は唇を噛み、深く頭を下げて去っていった。


闇の中に消えていくその背中を見送った瞬間。


カシリアの膝から力が抜け、地面へと崩れ落ちた。


「……ぁ……」


土の匂いが鼻をつく。


耳鳴りの中に、ロキナの言葉が何度も反響する。


『なぜ、あの方を、崖へ突き落とすのですか』


――守るつもりだった。


――救うつもりだった。


それなのに。


自分の未熟な行動が、鈍感さが、傲慢さが、刃となって彼女を刺していた。


リリスのあの笑顔。


『わたくし、本当に幸せですわ』


あれは、諦めだったのか。


それとも、最期の別れの言葉だったのか。


「……リリス……」


名前を呼ぶだけで、喉が焼ける。


会いたい。


今すぐ会って、謝りたい。


彼女が壊れてしまう前に、その手を取らなければ。


その時。


「殿下!?」


慌てた足音と共に、遠巻きに控えていた近衛兵たちが駆け寄る。


「何があったのですか!?」


「殿下、お怪我は!?」


彼らの声は、水の中のように遠く、歪んで聞こえた。


カシリアは彼らの手を振り払い、よろめきながら立ち上がった。


目は赤く充血し、焦点は定まっていない。


だが、その奥には、狂気にも似た執着の炎が燃え上がっていた。


「……リリスは……今、どこだ……!」


突如、正気に戻ったように顔を上げる。


その鬼気迫る表情に、兵士たちは息を呑んで後ずさった。


「リ、リリス様でしたら、まだ宴会場に――」


風になりたい。


雷になりたい。


一瞬で彼女のもとへ飛び、その孤独な魂を抱きしめたい。


たとえその腕が、彼女を傷つけた罪人の腕であろうとも。

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