第93話 王太子たる者の重み
カシリアは呼吸を止め、ロキナの唇の動きを凝視した。
組んだ指先が白く変色するほど強く握られ、額からは冷たい汗が流れ落ちる。
「……正直に言えば、私は最初、この噂を信じるつもりはありませんでした」
ロキナの声は低く、抑揚を押し殺していた。
夜風が木々を揺らす音さえも遮断するような、重く冷たい静寂が二人を包む。
「殿下がこれまで、貴族に対してどのような距離感で接してきたか……それを知っていれば、この手の噂を本気にする者は本来ほとんどいないはずです」
彼女は一歩も引かず、王太子を見据え続ける。
その瞳の奥には、恐怖よりも遥かに強烈な、主人を守ろうとする執念の炎が揺らめいていた。
「せいぜい、思春期の少女が作り上げた空想話として、笑われて終わる程度でしょう」
一拍、間を置く。
その沈黙の瞬間、カシリアの心臓は早鐘を打ち、喉が引きつるような渇きを覚えた。
「……ですが」
ロキナの視線が、物理的な質量を持って鋭く突き刺さる。
「改めてお聞きします。殿下は本当に、エリナ様と“そのようなこと”をなさったのですか?」
問いの形をしていながら、そこに迷いは一切なかった。
氷のように冷え切った声。
その奥に燃える、決して消えることのない怒り。
カシリアは無意識のうちに一歩後ずさり、背中を木の幹に預けた。
硬い樹皮の感触が、背骨を通じて震えを伝える。
逃げ場はない。
否定などできない。
「……それは……確かに、事実だ」
カシリアの声は、風にかき消されそうなほど弱々しかった。
いつの間にか背中は冷たい汗で濡れ、心臓は暴走したように激しく打ち続けている。
指切りをした。
笑い合った。
金を貸した。
その一つ一つが、今、絞首刑の縄となって首に巻き付いている。
「だが……君の想像しているような理由では――」
「まだ隠すのですか?」
ロキナは即座に遮った。
その声には、王族に対する敬意など微塵もなく、あるのは人間としての軽蔑だけだった。
「今さら、そのような自己弁護が、誰に通じるとお思いですか?」
「殿下は未来の王太子です。これまで、間違いさえ犯さなければ、どんな振る舞いも許されてきたでしょう」
「だからこそ……他人の立場など考えず、好き勝手に振る舞えると、そう思っていらっしゃるのではありませんか?」
――大不敬。
本来なら、即刻処刑されてもおかしくない言葉。
だが、今のカシリアには、それを咎める資格すらなかった。
彼女の言葉は正論であり、そして真実だったからだ。
「では……昨日、宝飾店でなさったことは何ですか?」
ロキナの声が震え始めた。
それは怒りによる振動だった。
「リリス様を馬車に残し、エリナ様と談笑しながら、彼女のために宝石を選び、さらには贈り物までした――」
「私が……エリナに、宝石を……?」
血の気が引く。
世界が歪む。
カシリアは問い返しながら、すでにその「答え」を理解していた。
――店員だ。
あの日の視線。
ひそひそと交わされた囁き。
『妹へのプレゼント』だとエリナは言っていた。
カシリアはそれに金を貸した。
不足分を補った。
それが、周囲の目にはどう映ったか。
王太子が、身元不明の少女に金を出し、宝石を買ってやった。
「殿下、私は見ました。エリナ様が店に入っていく姿を」
ロキナは追撃の手を緩めない。
「そして後日、リリス様の贈り物を注文しに行った際……店員たちが噂話をしているのも、はっきり耳にしました」
「『王太子殿下が、あの子に夢中だった』『きっと愛人だろう』と!」
「違う……あの時、私はエリナが――」
「殿下!」
ロキナは歯を食いしばり、激情を叩きつける。
「普段、誰にも心を開かない殿下が、エリナ様にだけ宝石を選び、贈り物までした。それが“気まぐれ”だと、誰が信じますか!?」
言葉が喉で詰まる。
舌が縫い付けられたように、動かない。
……否定したい。
『彼女が自分で買ったんだ』
『俺はただ見ていただけだ』。
だが、否定すればするほど、言い訳にしか聞こえない。
王族である自分の行動が、どれほどの重みを持つか。
本来なら、誰よりも理解しているはずだった。
自分の些細な挙動一つが、他者の運命を決定づける権力を持っていることを、知っていたはずだった。




