第90話 期待という名の檻
私は視線だけで殿下の方を確認した。
確かに、誰が見ても分かるほどの憔悴ではない。
背筋は伸びているし、受け答えも明瞭だ。
だが、いつもの彼なら持っているはずの、周囲を圧倒するような覇気が欠落している。
瞳の奥が暗く、まるで深い井戸の底を覗き込んでいるような陰鬱さが漂っている。
……これはまずい。
「……ええ、少し」
私は短く答え、即座に行動を開始した。
人垣を割り、殿下のもとへと歩み寄る。
「失礼いたします。お話の途中、申し訳ありません」
凛とした声で会話を遮断し、貴族たちの視線を一身に集める。
そして、殿下に向かって、あくまで自然に、慈愛に満ちた婚約者(候補)のように声をかけた。
「殿下、昨日の風邪はまだ完全に治っていないのでは?お顔色があまり優れないように見えますが……少し別室でお休みになられますか?」
「リリス……!」
殿下は、溺れる者が浮木を見つけたような顔で私を見た。
その瞳に一瞬、安堵と感謝、そして深い罪悪感が交錯する。
彼はすぐに状況を理解し、咳払いをして表情を整えた。
「……ああ、失礼した。確かに、まだ体調が万全ではないようだ。祝いの席で不調を見せてしまい、申し訳ない」
その一言で、周囲の空気が一気に和らぐ。
「おお、それは大変だ」
「ご無理をなさいませぬよう」
貴族たちは納得し、道を譲る。
精神的な不調ではなく、肉体的な「風邪」であれば、それは誰もが理解できる無害な理由となる。
「ありがとう、リリス。少し休ませてもらうよ」
「ええ。どうかご無理なさらずに、殿下」
私は微笑みながら、殿下を見送った。
侍従に支えられ、会場を後にする殿下の背中は、以前よりも一回り小さく見えた。
彼を追い詰めたのは、他ならぬ私の「幸福な嘘」だ。
私が完璧であればあるほど、彼は自分の無力さを突きつけられ、傷ついていく。
皮肉なものだ。
彼を守るための嘘が、彼を傷つけ、そして彼をこの場から逃がすための理由となる。
私たちは、言葉を交わさずとも、互いの傷を庇い合う共犯者だった。
殿下の背中が見えなくなるや否や、ファティーナが勢いよく戻ってきた。
「リリス様!ちゃんと殿下を見張っていないとだめですよ!」
彼女は頬を膨らませ、親身になって忠告してくる。
「体調が悪いなら、ずっとそばにいて差し上げないと!愛が深まるチャンスですのに!」
「……誤解です、ファティーナ。私と殿下の間に、特別な関係はありません」
私は淡々と否定する。
何度言えば伝わるのだろう。
私と殿下の間にあるのは、愛などという甘いものではなく、罪と罰、そして共依存にも似た重苦しい鎖だけだと。
「そんなの困りますわ!もっと距離を縮めないと!」
ファティーナは私の腕を取り、きらきらと目を輝かせながら言った。
その無垢な熱意が、熱い油となって肌を焼く。
「この国で、リリス様以上に王妃に相応しい方がいます?私はぜひ、あなたに王妃になっていただきたいのです!」
「家柄、容姿、能力、そして殿下との信頼関係……どれをとっても完璧ですわ!」
「リリス様が王妃になれば、きっと素晴らしい国になります!」
――まただ。
前世と同じ。
周囲の期待という名の、見えない檻。
「あなたならできる」
「あなたしかいない」
「期待している」。
善意で塗り固められたレンガが、一つまた一つと積み上げられ、私の逃げ場を塞いでいく。
私はその壁の中で、従順な子供のように頷き、流され続け、気づけば断崖絶壁の縁に立たされていた。
背後の道は、もう誰かによって塞がれている。
降りることも、戻ることも許されない。
ただ、王妃という頂を目指して、細いロープの上を歩き続けるしかない。
たとえその先が、断頭台であったとしても。
「……ありがとうございます、ファティーナ。過分なお言葉です」
それ以上は答えず、私は能面のような微笑だけを返した。
心の中では、冷たい風が吹き荒れている。
私に王妃になる資格などない。
自分の家族さえ愛せず、父を騙し、殿下を傷つけている私が、どうして国の母になれるというのか。
「あ、そうだ!」
するとファティーナは、何かを思い出したように手を打ち、再び耳元へ身を寄せた。
声を潜めるその仕草は、少女特有の秘密の共有を楽しむものだった。
「そういえば、リリス様。……“エリナ”という女の子をご存じですか?」
――その瞬間。
私の笑顔は、音もなく凍りついた。
世界の時が停止し、周囲の雑音が遠のいていく。
心臓が、冷たい手でギュッと握り潰されたかのような衝撃。
エリナ。
なぜ、ここでその名が出る?
まだ公表されていないはずだ。
父は手続き中だと言っていた。
殿下と私、そしてタロシア家の人間しか知らないはずの、呪われた名前。
「……え?」
喉から、乾いた音が漏れる。




