第88話 私は人形でいい
「殿下もご存じですよね。父の再婚の件」
微笑を一切崩さず、私は淡々と切り出した。
声色は冷たく澄んでいて、自分でも驚くほど落ち着いていた。
殿下の肩が、ビクリと跳ねる。
「……ああ。聞いている」
掠れた声。
そこに含まれる微かな痛みに、私の胸もまた共鳴して痛む。
殿下は知っているのだ。
私がどれほど傷つき、どれほど絶望していたかを。
だからこそ、この話題を避けていた。
けれど、私はあえてその傷口を開き、笑顔で塩を塗り込む。
「殿下、姉と以前からお知り合いだったそうですね。まるで運命みたいですわ」
言葉にするたび、喉が焼けるように熱い。
「そ、それは……偶然だ……」
殿下は視線を彷徨わせ、言い訳をするように早口になる。
「ただの……偶然の出会いで……」
「偶然こそ、運命の始まりとも申します」
私は言葉を重ね、逃げ道を塞ぐ。
「義母も姉も、とても優しくて。私にも親切にしてくださいます」
嘘だ。
彼女たちの優しさは、私にとっては猛毒だ。
けれど、それを認めるわけにはいかない。
「リリス……君は――」
殿下が耐えきれないように顔を上げ、何かを言いかけた。
その瞳には、私の仮面を見透かすような、深い悲哀と焦燥が宿っていた。
言わせない。
あなたのその、残酷な優しさを、私に向けさせない。
私は彼の言葉を遮るように、声を張り上げた。
「こんな素敵な家族に恵まれて、わたくし、本当に幸せですわ」
最高級の笑顔。
鏡の前で何千回も練習し、涙を飲み込んで作り上げた、完璧な令嬢の微笑み。
頬の筋肉が引き攣りそうになるのを、鋼の意志で固定する。
甘く、可憐で、そしてどこまでも空虚な、恋する乙女のような表情。
「……ッ」
殿下の顔から、急速に血の気が引いていった。
赤く濁った瞳が、私を凝視したまま凍りつく。
まるで、理解不能な怪物を見るような目。
あるいは、目の前で愛する人が壊れていくのを目撃したような、絶望の目。
ごめんなさい、殿下。
あなたにこんな顔をさせたかったわけじゃない。
けれど、こうするしかなかったの。
私が「不幸な被害者」であれば、あなたは私を助けようとするでしょう。
同情し、手を差し伸べ、私を救おうとするでしょう。
でも、それは愛じゃない。
ただの憐憫。
そして私は、その憐憫に依存し、あなたを縛り付け、やがて疎まれる存在になる。
もう、そんな未来は御免なの。
だから私は「幸せ」でなければならない。
家族に愛され、再婚を祝福し、満たされている公爵令嬢。
そうであれば、あなたは安心して私のそばを離れられる。
罪悪感も、同情もなく、あの光り輝くエリナのもとへと行ける。
胸が、物理的に引き裂かれるように痛い。
心臓を万力で締め上げられているような激痛。
けれど、私は笑い続ける。
期待を捨てれば、失望もない。
希望を持たなければ、絶望もない。
私は人形。
美しく、感情を持たない、ただの精巧な人形。
そう言い聞かせながら、私は車窓を流れる風景に視線を移した。
ガラスに映る私の笑顔は、泣いているように歪んで見えた。




