第86話 私に優しくしないで
私は即座に反応し、ナプキンを置いて立ち上がった。
「ご配慮ありがとうございます、殿下。お迎えに来ていただけるなんて、光栄ですわ」
「えっ!?殿下が迎えに来るなんて、リリスすごい!」
エリナが目を丸くし、素直な感嘆の声を上げる。
「やっぱり、噂通りの仲良しなんですね!いいなぁ、王子様のエスコート!」
「……違います」
私は静かに、けれど冷徹に否定した。
「殿下は通りがかっただけです。特別な関係ではありません」
これ以上、期待させないで。
これ以上、勘違いさせないで。
「殿下、申し訳ありませんが、今は食事中でして。少しお待ちいただけますか?すぐに支度をしてまいりますので」
「……もちろん。外で待っています」
殿下は逃げるように、いや、何かを堪えるように背を向け、足早に去っていった。
遠ざかる背中を見送りながら、私はようやく肺の底から息を吐き出した。
「まあ、リリス。殿下とお約束していたなら、そう言ってくれればよかったのに」
父が安堵したように笑う。
「急いで準備をしなさい。殿下をお待たせしてはいけないよ」
「はい、お父様。……申し訳ありませんが、お食事はこれで失礼いたします」
私はほとんど手のついていない肉料理に別れを告げ、逃げるように席を立った。
「リリス様、行ってらっしゃいませ」
「行ってらっしゃい、リリス!楽しんできてね!」
背後から投げかけられる、ミカレンの湿った声と、エリナの明るい声。
それらが、背中に粘つく泥のようにへばりつく。
私は振り返らず、早足で屋敷の中へと戻った。
廊下に出た瞬間、張り詰めていた糸が切れそうになり、壁に手をつく。
左手の手袋が、壁の冷たさを遮断する。
「お嬢様……」
いつの間にか、ロキナが傍らに立っていた。
彼女は何も聞かず、ただ心配そうに私を見つめている。
「……急ぐわよ、ロキナ。殿下をお待たせしているの」
私は震えそうになる声を意志の力で抑え込み、歩き出した。
「ドレスは、父様から頂いたあの赤いものを。……アクセサリーは、あなたが取ってきてくれた、あれにするわ」
「はい、かしこまりました」
自室に戻り、鏡の前で機械的に着替えを済ませる。
真紅のドレス。
雪の結晶のネックレス。
そして、白い手袋。
鏡に映る私は、血のような赤と、死のような白で構成された、美しい人形だった。
中身なんてない。
あるのは、他者の欲望を満たすための、空虚な器だけ。
「……行きましょう」
屋敷の正面玄関を出ると、そこに王家の紋章が入った馬車が停まっていた。
その前で、カシリア殿下が腕を組み、仁王立ちで待っていた。
周囲には数名の近衛騎士が控えているが、彼らの視線はどこか痛ましく、私に向けられる眼差しには同情の色が混じっていた。
……ああ、彼らも知っているのだ。
私がどれほど惨めな状況にあるか、そのすべてを。
「殿下、お待たせしました」
私は努めて優雅に、階段を降りた。
殿下はハッと顔を上げ、私へと歩み寄ってくる。
「リリス!?あ、いや……こちらこそ、急かしてすまない」
その目は赤く充血し、目の下には薄い隈があった。
昨夜、私を介抱し、そして今朝、あの残酷な事実を知り、一睡もしていないのだろうか。
「道が長いので……この馬車の方が楽です。一緒に、どうですか」
差し出された手。
白く、大きく、温かい手。
エリナと指切りをした手。
私を抱き上げ、手当てをしてくれた手。
その手が今、震えていることに気づいてしまった時、私の中で何かがきしみ音を立てた。
この人は、私のために傷ついている。
私のような、価値のない、壊れた女のために、心を痛め、怒り、悲しんでくれている。
一瞬だけ、胸の奥に温かい灯がともった気がした。
この手に縋り付きたい。
「助けて」と言って、その胸に飛び込みたい。
けれど、すぐに冷たい理性がその灯を吹き消した。
(だめよ、リリス)
殿下は、誰にでも優しいのだ。
路地裏で震える子犬にも、今日初めて会った平民の少女にも、そして絶望した公爵令嬢にも。
その優しさは、太陽の光のように平等で、そして残酷だ。
独占欲の強い私にとって、誰にでも注がれる愛など、毒でしかない。
一度その甘い毒を飲めば、私は二度と自力で立てなくなる。
依存し、執着し、やがて「私だけを見て」と叫び、破滅した前世のように。
だから、拒絶しなければならない。
この手を取ることは許されても、その心を求めることは許されない。
「……ありがとうございます、殿下」
私は手袋越しに殿下の手を取り、馬車のステップに足をかけた。
指先から伝わる彼の体温が、氷のように冷え切った私の身体を焦がす。
どうか。
お願いだから。
これ以上、私に優しくしないで。
これ以上、私を人間扱いしないで。
私はただの人形として、静かに壊れていきたいのだから。




