第85話 私、タロシア公爵の娘
銀のフォークが磁器の皿に触れ、硬質な音を立てようとした刹那。
静謐な庭園の空気を切り裂くように、ドカドカという無遠慮な足音が響き渡った。
それは一人の足音ではない。
複数の、それも相当に切迫した速度で地面を蹴る音だ。
「何事だ?」
父が眉を顰め、ナイフを置いて顔を上げる。
給仕をしていた侍従が慌てて確認に向かおうとしたが、その必要はなかった。
常緑樹の生垣を乱暴に回り込み、息を切らせて飛び込んできた人影があったからだ。
「リリス!オレは――!」
その叫び声は、悲鳴にも似ていた。
風に乱れた金髪、上気した頬、そして何より、理性をかなぐり捨てたかのように焦燥に満ちた瞳。
カシリア殿下だった。
王国の第一王子が、事前通告もなく、護衛を押しのけて公爵家の裏庭へ駆け込んでくるなど、前代未聞の椿事だ。
だが、その勢いは、私たち四人が囲むテーブルの前で、見えない壁に激突したかのように凍りついた。
殿下の足が止まる。
大きく見開かれた双眼が、私たちの食卓を――父を、ミカレンを、エリナを、そして微笑みを貼り付けたままの私を、呆然と映し出していた。
時が止まったような沈黙。
風に揺れる薔薇の葉音だけが、場違いなほど穏やかに響く。
殿下の喉が引き攣り、言葉にならない音が漏れる。
その瞳に宿る色は、驚愕ではない。
絶望的な光景を目の当たりにした者が抱く、深い戦慄と悲哀だった。
父の狼狽ぶりを見るに、これは予定された訪問ではない。
ミカレンやエリナに、王太子を呼びつける力などあるはずもない。
ならば答えは一つだ。
殿下は、知ってしまったのだ。
昨日、宝飾店であれほど無邪気にエリナと笑い合っていた殿下が、今この瞬間にここへ駆けつけた理由。
それは、彼が「エリナの正体」を知り、それによって引き起こされる「私の絶望」を悟ったからに他ならない。
(……ああ、やはり)
胸の奥で、冷たい石がストンと落ちる音がした。
殿下のあの、今にも泣き出しそうな表情。
私を見る、腫れ物に触れるような痛々しい視線。
昨夜、私が薔薇園で手首を切り、泥のような絶望の中で「死にたい」と泣き喚いたことを、彼は覚えているのだ。
そして今、私がこの「幸福な家族ごっこ」という地獄の釜茹でに耐えている姿を見て、耐えきれずに駆けつけたのだ。
同情だ。
純度百パーセントの、混じりけのない憐憫。
王太子としての責務でも、政略的な計算でもない。
ただ、傷ついた小動物を見捨てておけない、彼の高潔すぎる優しさが、彼をここへ走らせたのだ。
(……見ないで)
私はテーブルの下で、白い手袋をはめた左手を強く握りしめた。
こんな、惨めな姿を。
裏切り者たちに囲まれ、尻尾を振って愛想笑いを浮かべる、プライドの欠片もない道化のような私を。
見られたくなかった。
殿下の記憶の中の私は、せめて気高く、冷徹で、美しい悪役令嬢のままでありたかった。
「あ……れ?カシリア殿下?」
沈黙を破ったのは、空気を読まない太陽の声だった。
エリナが口元のソースをナプキンで拭いながら、キョトンとした顔で首を傾げる。
「どうしたんですか?そんなに慌てて。何か忘れ物?」
その無邪気さが、鋭利な刃物となって私の鼓膜を刺す。
彼女は知らない。
自分が殿下と親しげに話すその姿が、どれほど私の心を抉っているかを。
「殿下、いかがなさいましたか?」
私は座ったまま、完璧な角度で小首を傾げた。
声音は鈴の音のように澄んでいて、微塵の動揺も感じさせないはずだ。
今は、彼に何も言わせてはならない。
もしここで「助けに来た」などと言われれば、私の築き上げた虚構の城は崩れ去り、私はただの「可哀想な娘」として父たちの前に晒されることになる。
それだけは、死んでも御免だ。
「オレは……その……」
殿下はハッと我に返り、視線を泳がせた。
父やミカレンが立ち上がり、慌てて礼を取る中、殿下は必死に呼吸を整え、王太子の仮面を被ろうともがいている。
「……そういえば殿下、以前お約束していましたよね?家名をお伝えすると」
エリナが立ち上がり、屈託のない笑顔で殿下に歩み寄る。
「こんなに早く再会できるとは思いませんでした!驚きましたか?私、タロシア公爵の娘だったんです!」
誇らしげな告白。
殿下の顔が引きつり、苦渋に満ちた色が浮かぶ。
「……あ、ああ。聞いている」
ぎこちない返答。
その視線が一瞬、私の方へと向けられ、すぐに逸らされた。
胸が、じくりと焼ける。
もし私がいなければ。
私がこんなにも壊れやすく、扱いづらい存在でなければ。
殿下はもっと自然に、エリナの告白を祝福し、彼女の手を取って笑い合えたのではないか。
光と光。
お似合いの二人。
私はその間に立ち塞がる、薄暗い影法師だ。
殿下の優しさは、私に向けられるときだけ、重く湿った「同情」へと変質する。
それが、たまらなく苦しい。
「殿下。こちらが私の新妻ミカレン、そして娘のエリナです」
父が緊張した面持ちで、殿下の前に進み出た。
額には冷や汗が滲んでいる。
「事前にご挨拶できず申し訳ありませんが、再婚の申請と資料はすでに国王陛下へ提出済みです。……急なことで、驚かれたことと思いますが」
「……承知しました」
殿下は短く答えた。
その声には、押し殺した怒りのような響きが含まれていたが、父はそれに気づかない。
「ところで殿下、本日はどのようなご用件で?王宮からの急使もなしに」
父の問いに、殿下は一瞬言葉に詰まり、そして私を見た。
「……実は。ファティーナの誕生日会へ向かうので、リリスと一緒に行こうかと」
嘘だ。
あまりにも唐突で、お粗末な言い訳。
だが、それは今の私にとって、唯一の蜘蛛の糸だった。
「まあ、そうでしたの」




