第84話 完璧な家族団欒
カシリアは踵を返し、風のように部屋を出て行った。
馬車の車輪が石畳を削り、火花を散らすような速度で王都を駆ける。
カシリアは座席に深く沈み込み、組んだ両手に額を押し当てていた。
「……くそッ」
自分の無力さが、歯痒くてたまらない。
どうすればいい。
どうすれば、彼女を救える。
屋敷に乗り込み、父カストを一喝するか。
それとも、リリスの手を取り、強引に連れ去るか。
どんな手段を取っても、リリスの名誉を傷つけるリスクが付きまとう。
だが、このまま放置すれば、彼女の心は確実に死ぬ。
『……助けて……』
耳の奥で、リリスの掠れた声がリフレインする。
あれは幻聴ではない。
彼女の魂からの悲鳴だ。
「急げ!もっと飛ばせ!」
カシリアは御者台に向かって怒鳴った。
一秒でも早く。
彼女の心が完全に砕け散ってしまう前に。
やがて、夕闇に沈むタロシア公爵邸の威容が車窓に現れた。
巨大な門が、怪物の口のように開かれている。
馬車が完全に停止するのを待たず、カシリアは扉を蹴り開けて飛び降りた。
「リリス!!」
「殿下!?いかがなさいましたか!」
玄関ホールにいた老執事が、血相を変えて飛び込んできた王太子に仰天し、駆け寄ってくる。
「リリスはどこだ!どこにいる!」
カシリアは執事の肩を掴み、揺さぶった。
「お、お嬢様でしたら……皆様とご一緒に、後庭のテラスで夕食を……」
「後庭か!」
カシリアは執事を突き放し、廊下を疾走した。
磨き上げられた床を蹴り、角を曲がり、重厚なガラス扉を押し開ける。
夜風が頬を打ち、庭園の木々がざわめく。
その先、ランタンの温かな光に包まれた一角があった。
「リリス!俺は――!」
叫びながら踏み込んだカシリアの足が、凍りついたように止まった。
喉の奥で声が引き攣り、呼吸が停止する。
そこには、この世の地獄があった。
白亜のテーブルを囲む、四人の人影。
上座には、満足げにワイングラスを傾けるカスト公爵。
その隣には、恐縮しながらも幸せそうに微笑むミカレン。
向かい側には、慣れないドレスに身を包み、ぎこちなくナイフとフォークを動かすエリナ。
そして――。
カシリアの視線が、一点に釘付けになる。
エリナの隣、カシリアから見て正面の席に、彼女はいた。
リリス・タロシア。
真紅のルビーがあしらわれた豪奢なドレスを纏い、背筋を完璧に伸ばして座っている。
その左手には、カシリアが贈った白い手袋がはめられたままだ。
「……あ……」
カシリアの口から、絶望の吐息が漏れる。
彼女は、笑っていた。
ミカレンが何かを話し、父が頷き、エリナが照れくさそうに頭をかく。
その光景を眺めながら、リリスは慈愛に満ちた聖母のような微笑みを浮かべ、優雅に相槌を打っていた。
「ええ、そうですわね。とても素敵なお話ですわ」
鈴を転がすような、美しい声。
微塵の陰りも、嫌悪も、拒絶も見当たらない。
完璧な調和。
完璧な家族団欒。
だが、カシリアには見えてしまった。
その笑顔があまりにも精巧すぎて、まるでガラスで作られた仮面のように冷たく、その奥にある瞳が、光の一切届かない深淵のように虚ろであることを。
「……殿下?」
リリスが顔を上げ、カシリアの存在に気づいた。
その瞬間、彼女の瞳に一瞬だけ――ほんの一瞬だけ、ガラスがひび割れるような動揺が走った。
だが、次の刹那には、それは完璧な「驚きと歓迎」の表情へと塗り替えられていた。
彼女はナプキンを置き、音もなく立ち上がる。
流れるような所作でカーテシーを行い、カシリアに向かって微笑みかけた。
「まあ、カシリア殿下。このような時間に、どうなさいましたの?」
「……リリス……」
カシリアは一歩後ずさった。
怖い。
目の前の彼女が、リリスであってリリスではない、別の何かに見えて、本能的な恐怖が湧き上がる。
怒ってくれ。
泣いてくれ。
「助けて」と言ってくれ。
そうすれば、俺は全てを投げ打ってでも君を連れ出せるのに。
なぜ、笑うんだ。
なぜ、そんな風に、自分を殺してまで、この茶番劇を演じ続けるんだ。
その完成された地獄絵図を前に、カシリアは言葉を失い、ただ立ち尽くすことしかできなかった。




