第83話 カシリアは、救いたい
砕け散った机の残骸が床に散乱し、インクの黒い染みが絨毯に広がる中、彼は肩で荒い息をつき、充血した瞳で虚空を睨みつけた。
心臓が早鐘を打ち、全身の血液が逆流するような感覚が四肢を駆け巡る。
それは激しい怒りであると同時に、内臓を素手で掻き回されるような鋭利な痛みでもあった。
脳裏に焼き付いているのは、昨夜のリリスの姿だ。
生きることを拒み、震える手で自身の首を掻きむしり、幼児のように助けを求めていた彼女。
あの絶望の淵に立たされた少女に、世界はさらなる追い打ちをかけようとしている。
彼女の居場所を奪い、尊厳を踏みにじり、その傷口に塩を塗り込むような仕打ち。
それを傍観することなど、到底できるはずがなかった。
「父上は……父王はどこだ!」
カシリアは目の前に立つビアンナへと詰め寄り、その胸倉を力任せに掴み上げた。
鍛え上げられた騎士の身体が、いとも容易く宙に浮く。
「今すぐ会わせろ!このふざけた承認を取り消させる!」
「で、殿下……お、落ち着いてください……!」
ビアンナは苦しげに顔を歪め、カシリアの手首を掴んで抵抗した。
「本日、陛下は王都におられません……北部の視察へ向かわれました……」
「……ッ!」
カシリアは舌打ちし、乱暴に手を離した。
ビアンナが床によろめき、咳き込む。
「申請は一昨日か……。ならば、婚礼の儀はまだだな」
カシリアは血走った目で呟く。
まだ間に合う。
儀式さえ行われなければ、公的な記録に残る前になら、王太子の権限でいくらでも圧力をかけられる。
タロシア公爵家の体面、バード家の過去、法的な不備――使える材料はいくらでもある。
どんな手を使ってでも、あの親子が公爵邸に入り込むことを阻止せねばならない。
もし彼女たちが正式に家族となれば、リリスは逃げ場を失う。
あの屋敷は、彼女にとって安息の地から、針のむしろへと変貌するだろう。
「殿下……お気持ちは察します」
ビアンナが呼吸を整え、意を決したようにカシリアを見据えた。
「しかし、これはあくまで貴族家の私事です。そこに王太子が強引に介入すれば、専制君主の横暴と取られかねません。国政への影響も――」
「……」
カシリアの右手が、微かに痙攣した。
理屈だ。
正論だ。
王族として、為政者として、彼女の言葉は正しい。
だが、その正しさが今、リリスを殺そうとしているのだ。
「……殿下。まずは冷静になり、公爵家の様子をご覧になるべきです」
ビアンナは一歩踏み出し、諭すように言った。
「案外、リリス様も納得されているのかもしれません。彼女は聡明な方です。家の存続と発展を考えれば、受け入れることが最善だと――」
「黙れ」
カシリアの唇から、氷点下の言葉が零れた。
「……リリスは、もう――」
言葉が喉で詰まり、胸の奥が張り裂けそうになる。
言えない。
リリスが昨夜、自らの命を絶とうとしたことを。
その精神がすでに崩壊の縁にあり、聡明さなどという理屈で繋ぎ止められる状態ではないことを。
誰も知らないのだ。
彼女が被り続けた「完璧な令嬢」という仮面の下で、どれほどの血が流れているかを。
「……リリス様は、常に周囲と良好な関係を築いています。きっと今回も、上手く立ち回られるはずです」
ビアンナは、良かれと思って言葉を重ねた。
それが、カシリアの理性の最後の糸を断ち切る刃となるとも知らずに。
上手く立ち回る?
あの傷だらけの心で、まだ演技を続けろというのか。
死ぬまで笑い続けろというのか。
「――貴様らに、彼女の何が分かるッ!!」
ドゴォッ!!
鈍く重い音が、室内に響き渡った。
カシリアの拳が、ビアンナの顔面を捉えていた。
不意を突かれた騎士は、受け身を取ることもできず、無様に床へと転がった。
「殿下!?」
控えていた衛兵たちが悲鳴を上げる。
ビアンナは唇を切ったのか、口元から鮮血を流しながら、呆然とカシリアを見上げた。
「……それ以上、口にするな」
カシリアは拳を握り締め、震える声で告げた。
「ビアンナ・ルビロス。貴様に一日間の謹慎を命じる。……私の視界から消えろ」
「……はッ」
ビアンナは何も弁明せず、静かに頭を垂れた。
「全員、準備しろ!タロシア公爵邸へ向かう!」




