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第81話 エリナ・タロシア

窓から差し込む朝の光が、執務机に積まれた書類の束を照らし出した。


カシリアは羽根ペンを走らせ、承認のサインを次々と書き込んでいく。


インクの匂いと紙の擦れる音が、静寂な室内に満ちていた。


王太子としての日常。


国政に関する嘆願書、予算案、地方領主からの報告書。


それらは無限に湧き出る泉のように、彼の時間を侵食していく。


ふと、ペンを止めた。


指先に残る感触が、昨日の記憶を呼び覚ます。


ザラついた、硬い掌。


そして、小指に絡んだ、小さな指の温もり。


『絶対返しますから!出世払いで!』


無邪気な笑顔。


屈託のない声。


エリナ。


あの嵐のような少女は、カシリアの退屈で窒息しそうな日常に、鮮烈な風穴を開けた。


身分も礼儀も知らぬ平民の少女が、王太子に対して対等に振る舞い、あろうことか借金まで申し込む。


その図太さと、底抜けの明るさが、奇妙に心地よかった。


リリスとは正反対だ。


完璧で、美しく、けれど常にどこか壊れそうな危うさを秘めたリリス。


そして、泥だらけで、粗野で、けれど圧倒的な生命力で輝くエリナ。


光と影。


静と動。


対極にある二人の少女が、カシリアの思考の盤上で交錯する。


「……エリナ、だったな」


カシリアは独りごちた。


彼女の手は、騎士のそれだった。


ただの平民が、あれほどのタコを作るまで剣を振るうには、相当な覚悟と執念が必要だ。


『母を貴族にする』という言葉。


その背景には、どんな物語があるのだろうか。


興味が湧いた。


単なる暇つぶしではない。


彼女のような「異端」が、この堅苦しい王家学院にどのような波紋をもたらすのか、見てみたいという欲求。


カシリアは、部屋の隅に控えていた側近に視線を向けた。


「ザロ。最近の特別入学生の資料を持ってこい。名前はエリナだ」


「はッ。直ちに」


ザロは短く答え、足音もなく退室した。


書類の山が二つほど減った頃、廊下から複数の足音が近づいてきた。


一つはザロのもの。


だが、もう一つは、硬く重い軍靴の音だ。


扉が開かれる。


入ってきたのは、予想通りザロだったが、その顔色は蝋人形のように蒼白で、いつもの冷静さを欠いていた。


そして、その後ろには。


「……ビアンナか」


カシリアは眉をひそめた。


国王の親衛騎士であり、カシリアとはリリスの一件で「共犯関係」にあるビアンナ・ルビロス。


彼女がここにいるということは、単なる事務的な報告ではないということだ。


「失礼いたします、殿下」


ビアンナが一礼する。


その表情は鉄仮面のように硬く、瞳の奥には隠しきれない警戒色が宿っていた。


「ザロ。資料はどうした」


カシリアが手を差し出す。


ザロは一瞬ためらい、ビアンナと視線を交わしてから、震える手で一束の羊皮紙を差し出した。


「……こちらでございます」


「随分と大袈裟だな。たかが平民の入学生一人に」


カシリアは苦笑し、彼らの異様な緊張感を解こうと努めた。


だが、二人は笑わなかった。


それどころか、まるで処刑宣告書を手渡す執行人のように、沈痛な面持ちでカシリアを見つめている。


「……殿下。本当によろしいのですか」


ビアンナが低く問うた。


「ご覧になれば……後戻りはできません」


「何を言っている。たかが資料だぞ」


カシリアは苛立ちを覚え、羊皮紙をひったくった。


「当然だ。見せろ」


カシリアは、一番上の身上書に視線を落とした。


そこには、あの少女の特徴が記されている。


年齢、出身地、そして身体的特徴。


添付された似顔絵は稚拙だが、あの勝気な瞳と、跳ねた金髪の特徴をよく捉えていた。


視線を滑らせる。


そして、氏名の欄で止まった。


時間が、凍りついた。


呼吸が止まる。


心臓が、冷たい手で握り潰されたかのような衝撃。


文字が、意味をなさない記号としてではなく、呪いとなって網膜を焼いた。


『エリナ・タロシア』


カシリアの唇が、音もなく動く。


タロシア?


あのタロシア公爵家?


リリスの家?


「……馬鹿な」


乾いた笑いが漏れそうになるのを、喉の奥で噛み殺す。


偶然だ。


同姓の別人だ。


そうでなければならない。


だが、その下の備考欄に記された文字が、逃げ道を完全に封鎖した。


『父:カスト・タロシア公爵(認知手続き中)』


『母:ミカレン・バード(元伯爵令嬢、現タロシア公爵夫人予定)』


指先から力が抜け、羊皮紙がカサリと音を立てて震えた。


血の気が引いていく。


全身の血管に、氷水が流し込まれたような寒気が走る。


エリナは、リリスの姉?


あの、無邪気で、何も知らず、カシリアに借金を申し込んだ少女が?


リリスの幸福を奪い、その地位を脅かす「異物」だというのか。

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