第80話 幸福という名の暴力
努めて明るく振る舞うその声が、かえって痛々しく響く。
これ以上、踏み込ませてはいけない。
彼女の優しさに触れれば、私の仮面は脆くも崩れ去ってしまう。
「……うん。今日はファティーナの誕生日宴だから、午後の準備、お願いね」
私は彼女の気遣いに気づかぬふりをして、事務的な話題を投げかけた。
それが、互いを守るための唯一の防壁だった。
「……はい。かしこまりました」
ロキナもまた、それを察したように頷く。
「こちらは、昨日ご指示いただいた贈り物です」
差し出された箱を受け取る。
ずっしりとした重み。
特注のネックレス。
雪の結晶と翡翠。
昨日の私が、逃げる口実として注文し、彼女に取りに行かせた品。
「ありがとう」
ぼんやりと礼を言い、視線を逸らす。
「では、準備に戻ります。何かございましたら、いつでもお呼びください」
ロキナは深く一礼し、足音を忍ばせて去っていった。
遠ざかる背中を見送りながら、私は胸の奥で謝罪した。
ごめんね、ロキナ。
あなたを遠ざけるのは、あなたを愛しているからなの。
この泥沼に、あなたまで引きずり込みたくないから。
廊下を歩き、庭園へと続くテラスに出る。
秋の風に乗って、濃厚な甘い香りが鼻腔をくすぐった。
薔薇。
タロシア公爵邸の裏庭は、一面の薔薇園だ。
父が、亡き母サリスのために世界中から集めさせた、色とりどりの薔薇たち。
深紅、純白、淡いピンク、そして珍しい青紫。
母が生きていた頃、私はよく車椅子を押してここを散歩した。
母は花を愛で、私は母の笑顔を見ていた。
天気の良い日には、テーブルを出して、二人でお茶をしたこともあった。
『いい香りね、リリス』
『ええ、お母様。とても素敵』
幸福な記憶。
だが同時に、ここは呪いの場所でもある。
前世の記憶。
私が「姉」エリナを呼び出し、酒に毒を盛ったのも、確かこの東屋だった。
愛と罪が、幾重にも絡み合い、地層のように積み重なった場所。
「リリス!こっちだ」
父の声が、回想を切り裂いた。
視線を向けると、満開の薔薇に囲まれたガーデンテーブルに、父とミカレン、そしてエリナが座っていた。
「遅くなってごめんなさい、お父様」
私はドレスの裾を摘み、芝生の上を歩いていく。
花の香りが肺を満たす。
かつては母の匂いだと感じたその香りが、今は咽るような死臭のように感じられ、胸を焼いた。
「さあ、座りなさい。今日は天気がいいから、外で食べようと提案したんだ」
父は私のために椅子を引きながら、無邪気に言った。
「それに、今日は王家御用達の料理人を呼んだんだよ。エリナにも、本物の味を教えたくてね」
「うわぁ!すごーい!これ全部食べていいの!?」
エリナが目を輝かせ、並べられた豪勢な料理に歓声を上げる。
「ふふ、お行儀よくね、エリナ」
ミカレンが困ったように、けれど幸せそうに娘を嗜める。
完璧な構図だ。
太陽の下、美しい花々に囲まれた、仲睦まじい家族の昼食。
そこに、母の思い出が入り込む隙間はない。
父は、母のために作ったこの庭で、新しい家族と笑い合っている。
母の愛した薔薇の香りに包まれながら、別の女と娘に愛を囁いている。
残酷だとは思わないのだろうか。
それとも、過去も現在も全て愛しているという、博愛主義者のつもりなのだろうか。
「……はい、父様。楽しみですわ」
私は唇の端を持ち上げ、聖女のように微笑んだ。
溺れている。
光の中で、花の香りに包まれて、私は一人、冷たい水底でアップアップともがいている。
けれど、水面上の彼らには、私の痙攣が「楽しげなダンス」にしか見えていない。
いや。
そう見せているのは、私自身だ。
私が完璧に演じれば演じるほど、父は安心して、私を置き去りにしていく。
自分で自分を道化にし、自分で自分を殺している。
「リリス、顔色が少し白いようだが……やはり体調が優れないのか?」
父がふと、心配そうに私の顔を覗き込んだ。
その優しさが、鋭利なナイフとなって心臓を刺す。
心配するなら、気づいて。
私がこんなにも苦しんでいることに。
この場所が、私にとってどれほどの拷問であるかに。
でも、私は首を横に振った。
「いいえ、お父様。少し寝不足なだけですわ」
「そうか……無理はいけないよ。しっかり食べて、精をつけるんだ」
父は安堵し、私の皿に肉料理を取り分けた。
どれほど大切な思い出も、色褪せる。
死者は生者に勝てない。
過去は現在に勝てない。
そして私は、この圧倒的な「幸福の暴力」に、決して勝てない。
「……ありがとうございます」
滑稽だ。
私はナイフとフォークを手に取り、砂を噛むように肉を口に運んだ。
薔薇の香りが、噎せ返るほど甘く、私の嗅覚を麻痺させていった。




