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第79話 役者

湯冷めした肌がシーツに触れ、熱を奪われていく。


誰の手も借りずに着替えた寝間着は、どこか肌に馴染まず、異物のように身体を締め付けていた。


ベッドに身を投げ出し、枕に顔を埋める。


肉体は鉛を詰め込まれたように重く、思考は泥のように濁っている。


これほどの疲労があれば、意識など容易く手放せるはずだった。


だが、現実は慈悲を与えてはくれない。


瞼を閉じても、闇の裏側にチカチカと不快な光が明滅する。


寝返りを打ち、天井を見上げ、また目を閉じる。


浅い呼吸を繰り返すうち、不意に身体の輪郭が溶け出すような感覚が訪れた。


ようやく、眠れる。


そう安堵した刹那――世界が、唐突に裏返った。


足元の床が消失する。


重力だけが暴走し、内臓がせり上がるような強烈な浮遊感が襲う。


「あ……」


声を出そうとしても、喉は凍りついたように動かない。


指先を伸ばしても、掴むべき縁など存在しない。


私はただ、絶対的な漆黒の中を落下していた。


音も、光も、温度さえもない虚無の深淵へ。


終わりのない垂直落下。


恐怖が心臓を握り潰し、肺から空気を絞り出す。


地面に激突する――その寸前の絶望的な恐怖だけが、永遠に引き伸ばされる。


ガバッ、と身体が跳ね起きる。


荒い呼吸音だけが、静寂な寝室に響いている。


冷たい汗が背筋を伝い、シーツを濡らす。


夢だ。


震える手で顔を覆い、再び枕に沈み込む。


だが、微睡みが訪れるたびに、同じ闇が口を開けて待っている。


落ちる。


叫べない。


目覚める。


また落ちる。


それは睡眠ではなく、精神を削り取る拷問の反復だった。


窓から差し込む光が、残酷なほど明るく室内を照らし出し、昼食の時刻が迫っていることを告げていた。


鏡の前に座り、自分の顔を見つめる。


そこには、生気を吸い取られた亡霊のような少女が映っていた。


目の下には、絵の具を擦り付けたような濃い隈が刻まれている。


「……酷い顔」


唇から乾いた自嘲が漏れる。


今日は、ファティーナの誕生日の祝い。


午後からは着飾って、友人たちと笑い合わなければならない。


そしてその前には、父たちとの昼食が待っている。


震える指で化粧筆を執る。


白粉を叩き、紅を引き、影を消し去っていく。


一層、また一層と塗り重ねるたびに、鏡の中の亡霊は「完璧な公爵令嬢」へと変貌を遂げていく。


隈が見えなくなったことを確認し、私は小さく息を吐いた。


よし。


これで誰も気づかない。


私の内側が腐り落ちていても、表面さえ美しければ、世界は私を正常だと見做すのだから。


立ち上がり、扉の前へと歩を進める。


ノブに手をかける。


冷たい金属の感触が、掌に食い込む。


回せば、そこは舞台だ。


父に「おはようございます」と微笑み、継母と義姉に「ごきげんよう」と挨拶をする日常。


分かっているのに、指に力が入らない。


どうやって笑えばいい?


どんな声を出せばいい?


昨夜の記憶、手首の傷の疼き、悪夢の残滓。


それらが足首に絡みつき、私をこの部屋に留めようとする。


数秒、あるいは数分。


私は扉の前で彫像のように立ち尽くしていた。


やがて、意を決してノブを回す。


カチャリ、と微かな音がして、重い扉が開いた。


「……ロキナ?」


廊下には誰もいないはずだった。


昨夜、「朝は起こさなくていい」と書き置きを残したのだから。


けれど、彼女はそこにいた。


扉の横の壁に背を預け、ベルベットの小箱を胸に抱いて、じっと待っていたのだ。


私の声に、俯いていた顔が弾かれたように上がる。


視線が絡み合う。


その一瞬。


彼女の鳶色の瞳に、隠しきれない悲痛な色が揺らめいたのを、私は見てしまった。


彼女は見ていたのだ。


私が扉を開けるまでの長い逡巡を。


あるいは、部屋の中から漏れ聞こえていたかもしれない、私の荒い呼吸や気配を。


「……ッ」


ロキナはすぐに瞬きをし、その悲しみを瞳の奥へと押し隠した。


いつもの、穏やかで忠実な侍女の仮面を被り直す。


「お目覚めですか、お嬢様」



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