第78話 幸せの観客
善意。
純粋な親愛。
それが私には、吐き気を催すほどの侮辱に感じられた。
私の宝石箱には、最高級のダイヤモンドやサファイアが眠っている。
父が贈ってくれた、歴史ある名品の数々。
それらを知りながら、あえてこれを贈るのか?
それとも、私がこれを喜ぶような安い女だと思っているのか?
違う。
彼女はただ、知らないだけだ。
価値も、常識も、私の好みも。
その「無知」が、私を苛立たせる。
『まあ、素敵ですわ。ありがとう、エリナ』
私は完璧に微笑み、そのゴミのような物体を手首に当てて見せた。
肌に触れる冷たくザラついた感触が、虫が這うようで身の毛がよだった。
『よかった!大事にしてね!』
彼女は満足げに頷き、肉料理を豪快に頬張った。
私は、そのブレスレットをつけたまま、食事を続けなければならなかった。
手首に嵌められた枷のように、それが重く、熱く、私の神経を逆撫でする。
本当なら、部屋に戻った瞬間に床に叩きつけ、踵で踏み潰し、暖炉に放り込んで燃やしてしまいたかった。
だが、できなかった。
もしロキナに見つかったら?
もし父が部屋に来て、「あれはどうした」と聞いたら?
恐怖が私の衝動を抑え込んだ。
私はそれを、引き出しの最も奥深く、目に触れない場所へと押し込んだ。
まるで、見てはいけない死体を隠すように。
それが私の精一杯の抵抗だった。
そして、ミカレン。
彼女は食後のサロンで、私の足元に崩れ落ちるようにして抱きついてきた。
『リリス様……本当に、ありがとうございます……』
『私たちを受け入れてくださって……なんてお礼を言えばいいか……』
涙、涙、涙。
彼女の目からは、尽きることのない泉のように液体が溢れ出し、私のドレスの裾を濡らした。
『エリナを……よろしくお願いします……』
しゃくりあげる声。
鼻をすする音。
途切れ途切れの感謝の言葉。
私は優しく彼女の肩に手を置き、微笑んで頷いた。
『顔を上げてください、ミカレン様。私たちはもう、家族なのですから』
口から出た言葉は、聖女のように慈悲深かったはずだ。
だが心の中では、私は叫んでいた。
うるさい。
黙って。
その汚い涙で私に触れないで。
耳障りな泣き声は、調律の狂った楽器が奏でる不協和音のように、私の脳髄を直接揺さぶった。
壊れたオルゴール。
錆びついた蝶番。
彼女の存在そのものが、私の整然とした世界を乱すノイズだった。
口を縫い合わせてやりたい。
その涙腺を焼き潰してやりたい。
湧き上がる暴力的な衝動を、私は必死に理性の檻に閉じ込める。
それでも――。
心のどこかで、私は彼女を羨んでいたのかもしれない。
人目を憚らず泣ける彼女を。
感情を露わにし、誰かに縋り付くことを許されている彼女を。
私は泣けない。
どんなに悲しくても、どんなに苦しくても、笑顔という仮面を剥がすことができない。
涙は弱さの証明だと教えられ、感情は殺すものだと信じて生きてきた。
だから、彼女のあの無様な泣き顔が、私には自由の象徴のように見えて、妬ましくて仕方なかったのだ。
握りしめた拳の中で、爪が皮膚を突き破る痛みが、彼女の泣き声よりも遥かに小さな悲鳴を上げていた。
湯船から上がり、バスタオルで身体を拭く。
鏡に映る自分の姿は、湯気でぼやけている。
その曖昧な輪郭が、今の私にふさわしいと思った。
あの「幸せな夕食」の時間。
私はそこにいたけれど、いなかった。
父とミカレンは、昔話に花を咲かせていた。
二人にしか分からない、私の生まれる前の思い出話。
エリナは、平民街での冒険譚を披露していた。
ドブネズミを捕まえた話、市場での喧嘩、屋根から落ちて怪我をしたこと。
父はそれを目を細めて聞き、時折声を上げて笑っていた。
『それはすごいな!まるで男の子みたいだ』
『あはは!パパったら、もっと驚いてよ!』
飛び交う言葉。
弾む笑い声。
温かな空気。
私は、そのどれにも入れなかった。
平民街の暮らしなど想像もつかない。
ドブネズミなど見たこともない。
市場の喧嘩など、野蛮でしかない。
私が知っているのは、貴族の系譜、詩集の一節、社交界の暗黙のルール、ドレスの流行。
この食卓では何の役にも立たない知識ばかりだ。
『リリスはどう思う?』
時折、父が気を使って話を振ってくれる。
そのたびに私はビクリとし、必死に脳を回転させて、場を白けさせない回答を探した。
『ええ、とても……ユニークで、興味深いですわ』
『皆様が楽しそうで、私も嬉しいです』
当たり障りのない、空虚な言葉。
それが精一杯だった。
無知をさらけ出すのが怖くて、気の利いた冗談も言えず、ただ曖昧に微笑んで頷くだけ。
私は舞台の端に座らされた観客だった。
照明の当たらない場所から、輝く主役たちの劇を眺め、タイミングを合わせて拍手を送るだけの存在。
私がいなくても、いや、いない方が、この会話はもっと弾んだだろう。
私の存在が、彼らにとって微かな異物感を与えていることを、肌で感じていた。
父が私に向ける視線に混じる、ほんの少しの気遣い。
それが、私を傷つける。
「気を使わせている」という事実が、私の惨めさを浮き彫りにする。
最初から、この食卓に私の席など用意されていなかったのだ。
あるのは「前妻の娘」という役割のための椅子だけで、リリスという人間の居場所ではなかった。
寝間着に着替え、天蓋付きのベッドに潜り込む。
シーツは冷たく、滑らかで、私の体温を吸い取っていくようだ。
目を閉じても、眠気は訪れない。
代わりに、あの父が用意してくれた真紅のドレスがまぶたに浮かぶ。
『お祝いだ』と言って渡されたドレス。
学生会長になれなかった私への、皮肉のような贈り物。
だが、私はそれを着た。
なぜなら、長袖のデザインだったから。
そして、それに合わせるための手袋をはめる口実ができたから。
自分で自分の皮膚を切り裂いた痕。
それを隠すために、父の愛を利用した。
父の用意した美しい布で、私の醜い罪を覆い隠した。
私は、父を騙している。
笑いながら、感謝しながら、その裏で父を欺き続けている。
罪悪感が胸を押し潰す。
それでも、真実を告げる勇気はない。
「おやすみ、リリス」
誰もいない部屋で、自分自身に囁く。
返事はない。
闇が濃くなる。
明日の朝、目が覚めなければいいのに。
このまま深い泥の中に沈んで、二度と浮き上がってこなければいいのに。
そう願いながら、私は冷たい枕に顔を埋めた。
意識の端で、手首の傷がドクリと熱く脈打った。
それは、「生きている」という残酷な事実を、執拗に私に告げ続けていた。




