第77話 無骨な贈り物
食事後。
湯気が白濁した霧となって視界を覆い、大理石の壁に水滴となって伝い落ちる。
私は広大な浴槽の縁に頭を預け、重力から解放された四肢を湯の中に漂わせていた。
使用人たちは全員、私の命で下がらせた。
広い浴室には、湯が揺れる微かな水音と、私自身の頼りない呼吸音だけが反響している。
ロキナには書き置きを残してきた。
『明日の朝は少し寝坊したい。起こしに来なくていい』
嘘だ。
寝坊したいわけではない。
ただ、朝の光の中で、彼女の真っ直ぐな瞳に見つめられるのが怖いのだ。
私の顔に張り付いた仮面が、睡眠という無防備な時間の間に剥がれ落ち、その下にある醜悪な真実が露呈してしまうのではないかという恐怖。
それを避けるために、私は最も忠実な侍女さえも遠ざけた。
一人になりたかった。
このぬるい羊水のような温もりに包まれ、外界のすべてを遮断したかった。
今日という一日が、私の中に残した澱のような感情を、洗い流すことなどできないと知りながら。
湯面から、両手をゆっくりと持ち上げる。
雫が指先から滴り落ち、波紋を作る。
白く、滑らかで、陶磁器のように美しい肌。
だが左手首には、赤いミミズ腫れのような線が、消えない刻印として残っている。
血はすでに止まり、洗い流された。
けれど、そこに刻まれた「死への渇望」の痕跡は、どんな香油を使っても消えはしない。
私はその傷を、じっと見つめる。
痛みはない。
いや、湯の熱さが傷口に染み込み、チリチリとした灼熱感をもたらしているはずだが、心がそれを痛みとして認識しない。
ただ、そこに「事実」があるだけだ。
私は、自らを傷つけた。
誰に見せるためでもなく、誰に誇るためでもなく。
ただ、行き場のない絶望を、肉体に刻み込むことでしか処理できなかった。
愚かだ。
かつて本で読んだことがある。
他者の関心や同情を引くために、あるいは言葉にできない苦しみを訴えるために、自らの体を傷つける精神の病について。
当時の私は、それを理解できない遠い世界の狂気だと思っていた。
だが今、私はその「病的な側」の住人となっている。
傷口が脈打つ。
ドクン、ドクンと、心臓のリズムに合わせて赤く明滅するようだ。
私はこの傷を通じて、無言の言葉を叫んでいるのではないか。
誰に?
父にだ。
「再婚なんて受け入れられない」
「新しい家族などいらない」
「私だけを見てほしい」
そう口に出して言えれば、どれほど楽だろう。
もし私が、床に転がって泣き喚き、食器を投げつけ、父を罵倒するような厚かましい娘であったなら。
父はきっと困惑し、苦悩し、そして最終的には私の願いを聞き入れただろう。
あの優柔不断で優しい父のことだ。
泣き叫ぶ実の娘を無視してまで、かつての恋人を迎え入れる非情さは持ち合わせていない。
ミカレンを遠ざけ、金銭的な支援だけで済ませ、私との平穏な生活を選んだかもしれない。
だが、その選択の先に何がある?
父は一生、愛する女性と娘を捨てた罪悪感を背負い、曇った瞳で私を見るだろう。
私は一生、父の幸福を奪ったという事実を抱え、その愛が義務感によるものであることを知りながら生きるだろう。
結局、誰も救われない。
全員が不幸という泥沼に沈む未来しか描けない。
それは前世で私が選んだ、「一緒に滅びよう」という破滅的な思考と何ら変わりがない。
だから私は、言葉を飲み込んだ。
拒絶も、本音も、すべてを腹の底に押し込み、代わりにこの傷を作った。
「気づいて」と祈りながら。
「気づかないで」と願いながら。
この傷が父の目に触れ、彼が私の苦しみを悟ってくれれば、私は言葉を発することなく救済されるかもしれない。
そんな卑しい期待が、心の片隅にへばりついている。
私は、なんて醜いのだろう。
他人の幸福を受け入れられず、誰かが笑うだけで胸が引き裂かれる。
その狭量な嫉妬心を、悲劇のヒロインのような顔をして正当化しようとしている。
湯の中に顔を沈める。
ボコボコと気泡が上がり、視界が歪む。
息ができない苦しさが、少しだけ心地よかった。
脳裏に、数時間前の光景が鮮明に蘇る。
記憶力の良さは、私の自慢だった。
複雑な詩歌も、歴史の年号も、一度見れば忘れなかった。
だが今は、その才能が呪いとなって私を責め苛む。
忘れたいのに。
消し去りたいのに。
まぶたの裏で、あの夕食会の映像が延々と再生される。
エリナの笑顔。
日焼けした肌に、白い歯を見せて無邪気に笑う、あの顔。
『これ、リリスに!』
彼女はそう言って、小さな包みを差し出した。
市場で買った安物の紙で包まれ、麻紐で縛られただけの、無骨な贈り物。
私はそれを受け取り、丁寧に紐を解いた。
中から出てきたのは、ガラス玉を繋げただけの、粗末なブレスレットだった。
気泡が入り、形も不揃いで、金具は錆びかけた真鍮製。
平民の子供が祭りで買うような、玩具に等しい品。
『私の稼いだお金で買ったんだ!似合うかな?』
エリナの瞳は、一点の曇りもなく輝いていた。




