第76話 完璧な娘なのだから
「……はい」
私は膝の上で両手を重ね、静かに父を見つめた。
左手の手袋の下で、傷口が脈打つ。
「若い頃、私は……取り返しのつかない過ちを犯した」
父は苦渋に満ちた表情で、重い口を開いた。
語られるのは、聞き飽きた物語だ。
前世で何度も聞き、悪夢の中で何度も反芻した、父の懺悔。
身分違いの恋。
酒の席での過ち。
予期せぬ妊娠。
世間体を守るための隠蔽。
そして――私という娘がいながら、別の家庭を築こうとする裏切り。
言葉の一つ一つが、礫となって私に降り注ぐ。
ミカレン。
エリナ。
その名前が出るたびに、私の内臓は冷たい手で鷲掴みにされたように縮み上がる。
「……そして、私は彼女たちを、この屋敷に迎えたいと思っている」
結論が出た。
再婚。
私の居場所の消滅宣告。
「……そうなのですね」
私の声は、驚くほど冷静だった。
感情を殺し、心を凍らせていたおかげだ。
けれど、身体は嘘をつけない。
重ねた両手の指先が、互いの肉に深く食い込む。
手袋の白い生地に、じわりと赤いしみが広がりそうになるのを、私は必死に隠した。
「……母様のことは、もう……」
「忘れてなどいない!」
父は悲痛な声で叫んだ。
「サリスのことは愛していた。今も愛している。だが……ミカレンとエリナを、これ以上日陰に置いておくことは、人としてできないのだ」
父の目は潤み、私に赦しを乞うていた。
ずるい。
そんな顔をされたら、私が悪者になるじゃないか。
私が拒絶すれば、父は一生苦しむことになる。
そんなことはさせない。
私は「いい子」なのだから。
「お父様は……悪くありません」
唇が勝手に動く。
「誰かを愛し、守ろうとすることは……罪ではありませんわ」
「リリス……!」
父が感極まって立ち上がり、私を強く抱きしめた。
「理解してくれるのか。おお、リリス……私の優しい娘……」
父の腕の温もりが、全身を包み込む。
かつては、この場所だけが世界のすべてだった。
この温もりに守られているだけで、私は最強になれた。
けれど今は、その温もりが苦しい。
息ができない。
父の匂いに混じる、微かな別の香水の残り香が、鼻腔を刺激して吐き気を催させる。
これは、私への愛ではない。
自分の罪悪感を軽くするための、安堵の抱擁だ。
「……だって、私はお父様を愛していますから」
言葉と共に、瞳から涙が零れ落ちた。
これは演技の涙か、それとも絶望の涙か。
自分でももう、分からなかった。
ただ、温かい雫が冷え切った頬を伝い、床へと落ちていく感覚だけが鮮明だった。
「……ありがとう、リリス」
父は私の頭を撫で、涙を拭ってくれた。
その指は優しく、そして残酷だった。
「今夜、彼女たちを夕食に招いているんだ。……一緒に、食事をしてもいいか?」
決定事項だ。
「いいか?」という問いは、形式的な確認に過ぎない。
拒否権など、最初から存在しないのだ。
私は濡れた睫毛を持ち上げ、父を見つめた。
そして、この世で最も美しく、最も空虚な微笑みを浮かべた。
「……はい。喜んで」
笑う。
心臓が腐り落ちても、魂が悲鳴を上げても。
私は仮面を被り続ける。
だって私は、お父様の自慢の、完璧な娘なのだから。




