第75話 父の誇り
馬車の速度が緩み、車輪が石畳を叩く規則的なリズムが、砂利を踏みしめる重く不規則な音へと変わる。
身体に伝わる微細な振動の変化が、私に現世への帰還を告げていた。
窓の外を見上げる。
夕暮れの逆光の中に、タロシア公爵邸の尖塔が黒いシルエットとなってそびえ立っている。
巨大な怪物の顎あぎとのようなその門を潜れば、そこは私の家であり、同時に逃げ場のない舞台となる。
あの中で、父が待っている。
「……」
胸の奥で、ドロリとした熱い塊が蠢く。
私は父を愛している。
この世でたった一人の肉親。
私の存在を肯定してくれる唯一の守護者。
それなのに、脳裏に「再婚」という二文字が浮かんだ瞬間、食道が焼け付くような拒絶反応が駆け巡る。
(母様と一緒に、永遠に眠らせてしまえばいい)
ふと、そんな冒涜的な思考が閃く。
そうすれば、父は誰のものにもならない。
あの女に汚されることも、あの娘に奪われることもない。
美しい記憶のまま、私のものだけでいてくれる。
「……ッ」
私は強く首を振り、その暗い妄想を振り払った。
だめだ。
爪が掌に食い込み、鋭い痛みが理性を引き戻す。
前の人生と同じ過ちを繰り返してはならない。
激情に身を任せ、愛を暴力で証明しようとした結果、私は断頭台の露と消えたのだ。
今回は、違う。
私は学習した。
私は成長した。
鏡に映る自分を見つめる。
蒼白な頬を両手で叩き、口角を指で持ち上げる。
唇が弧を描く。
目は優しく細められ、慈愛に満ちた光を宿す。
完璧だ。
皆が望む「幸せな娘」、リリス・タロシアの完成。
馬車が完全に停止し、扉が開かれた。
「お嬢様、到着いたしました」
御者の声に、私は鈴を転がすような声で応える。
「……ええ、今行くわ」
手袋の下の傷が疼くのを無視して、私は優雅にステップを降りた。
重厚な両開きの扉が開かれると、エントランスホールにはすでに父、カスト・タロシア公爵の姿があった。
彼はいつもの威厳ある立ち姿ではなく、どこか落ち着きなく指を組んでは解き、視線を彷徨わせていた。
私が入った瞬間、その表情に安堵の色が広がる。
「リリス、お帰り。今日は朝から出かけていたようだね」
「はい、お父様」
私は流れるような所作でカーテシーを行い、顔を上げて微笑んだ。
「明日、学生会副会長に就任されたファティーナ様の誕生日ですので、そのお祝いの品を注文してまいりました」
嘘は、真実の中に一滴だけ垂らすのが最も効果的だ。
ファティーナの誕生日は事実。
だが、私が屋敷を逃げ出した理由はそれではない。
父は納得したように頷いた。
「そうか。友人を大切にするのは良いことだ。お前は昔から気が利くな」
父は背後の侍従に目配せをした。
侍従たちが恭しく運んできたのは、豪奢なベルベットのケースだった。
蓋が開かれる。
そこには、真紅のルビーが薔薇の蕾のように散りばめられた、夜会用のドレスが収められていた。
照明を浴びて、血のように、あるいは燃える炎のように輝く赤。
私の好みを知り尽くした、完璧な逸品。
「学生会長就任、おめでとう。リリス」
父は誇らしげに目を細め、私の肩に手を置いた。
「お前は、父の誇りだ」
「……」
心臓が一瞬、冷たく停止する。
私は、学生会長にはなれなかった。
テストの最中に倒れ、棄権したのだから。
父はまだ、正確な結果を知らないのか。
それとも、私の能力を盲信し、当然の結果だと思い込んでいるのか。
否定する言葉が喉まで出かかる。
『いいえ、お父様。私は失敗しました』
けれど、今の父の笑顔を見て、その言葉を飲み込んだ。
この笑顔を曇らせたくない。
期待を裏切りたくない。
私は、父の理想の娘でなければならないのだから。
「……ありがとうございます、お父様」
私はドレスに視線を落とし、感極まったように声を震わせた。
「とても……とても素敵です。私のために……」
「ああ、お前にならきっと似合う」
父の満足げな声が、耳鳴りのように響く。
私は笑う。
頬の筋肉が痙攣しそうになるのを意志の力で抑え込み、完璧な幸福の仮面を貼り付ける。
「リリス……」
不意に、父の声色が重く沈んだ。
室内の空気が変わり、侍従たちが音もなく下がっていく。
来た。
直感が、冷たい刃となって背筋を走る。
父は私を応接セットのソファに座らせ、自らも対面に腰を下ろした。
膝の上で握りしめられた父の拳が、白く変色している。
「今日は、お前に話しておかなければならないことがある」




