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第74話 善意は毒

馬車が轍を乗り越えるたび、車体が重く軋み、その振動が背骨を伝って脳髄まで揺さぶる。


ゴロゴロ、ゴロゴロ。


車輪が石畳を削る乾いた音が、終わりのない葬送曲のように鼓膜を打ち続ける。


私は窓枠に肘をつき、額を冷たいガラスに押し当てていた。


視界を流れるのは、夕暮れに染まった街道の景色。


長く伸びた影が、黄金色に輝く麦畑を黒く塗りつぶしていく。


見覚えがある。


何もかもが、痛いほどに馴染み深い。


二年前。


王都での初等教育を終え、父に会える喜びに胸を弾ませながら、この道を駆けた。


あの時の空はもっと青く、風は甘く、世界は希望に満ちていたはずだ。


たった二年。


砂時計の砂が落ちるような、わずかな時間。


けれど、硝子に映る私の瞳は、数百年の時を孤独に彷徨った亡霊のように澱んでいる。


左手の白手袋を、右手で強く握りしめる。


布の下にある傷が、心臓の拍動に合わせてズキズキと熱い信号を送ってくる。


痛みだけが、私がまだ肉体を持った人間であることを証明していた。


目を閉じても、瞼の裏には鮮烈な色彩が焼き付いて消えない。


宝飾店の、あの煌びやかな空間。


ショーケースの輝きよりも眩しかった、二人の姿。


カシリア殿下と、エリナ。


思い出されるのは、殿下のあの表情だ。


眉を下げ、呆れたように、けれど口元には隠しきれない笑みを浮かべていた。


肩の力が抜け、王太子という鎧を脱ぎ捨て、ただの青年としてそこにいた。


私には一度も向けられたことのない、温度のある眼差し。


私といる時の殿下は、常に完璧で、隙がなく、そしてどこか義務的だ。


優しささえも、「そうあるべき」という理性のフィルターを通したものでしかない。


けれど、彼女の前では違った。


エリナの前では、彼は呼吸をしていた。


認めたくない。


認めてしまえば、私の中の何かが完全に砕け散ってしまう。


けれど、事実は残酷なほど明白だった。


彼らは、よく似合っていた。


太陽の下で笑う陽気な少女と、それに惹かれる高貴な青年。


まるで物語の主人公とヒロインのように、光と光が互いを引き立て合っていた。


対して私はどうだ。


日陰に咲く毒花。


闇の中でしか生きられない、湿った苔のような存在。


あの輝かしい輪の中に、私が入り込む余地など、最初から一ミリも存在しなかったのだ。


羨ましい。


その感情は、鋭利な刃物となって私の内臓を切り刻む。


エリナの、あの無防備な明るさが。


打算も計算もなく、ただ感情のままに生き、それでいて誰からも愛されるあのアマチュアさが。


彼女は知っているのだろうか。


自分がどれほど残酷なことをしているのかを。


店を出る時、私は聞いてしまった。


彼女が、全財産を叩いて買ったというネックレスの話を。


『妹に、何か買ってあげたくて』


会ったこともない、顔も知らない異母妹のために。


自分の生活を切り詰め、泥にまみれて稼いだ金を、惜しげもなく使う。


そこには一点の曇りもない、純粋無垢な善意しかない。


ミカレンもそうだ。


私の足に縋りつき、額を割って血を流しながら、娘のために乞うていた。


私を恨むでもなく、呪うでもなく、ただひたすらに謝罪し、私を気遣っていた。


父もまた、私を愛している。


不器用で、鈍感で、残酷なほど無神経だが、その根底にあるのは私への愛だ。


誰も、私を傷つけようとはしていない。


誰も、私に悪意を向けていない。


全員が善人で、全員が優しくて、全員が正しい。


だからこそ、私は逃げ場を失う。


こんなにも愛されているのに、こんなにも恵まれているのに、満たされない私。


善意を拒絶し、優しさを疎ましく思い、幸福な家族の完成を阻む私。


私だけが、異物だ。


私だけが、この美しい絵画を汚すシミだ。


彼らの清らかさが、私の卑しさを際立たせる。


彼らの温かさが、私の冷酷さを浮き彫りにする。


これは拷問だ。


鞭で打たれるよりも、焼けた鉄を押し当てられるよりも、遥かに陰湿で逃れられない魂の拷問。


いっそ、悪人であればよかった。


爪が掌に食い込み、手袋の生地が悲鳴を上げる。


継母が、私を虐げる性悪な毒婦であれば。


義妹が、私の地位を狙う狡猾な野心家であれば。


父が、私を政略の道具としか見ない冷血漢であれば。


そうであったなら、どれほど救われただろう。


私は被害者になれた。


正義の御旗を掲げ、彼らを憎み、軽蔑し、断罪する権利を持てた。


「あなたたちが悪い」と叫び、復讐の刃を研ぐことができた。


そうであれば、私は…みんなを殺せるのに……


なぜ、そうならなかった……

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