第72話 私は逃げた
カシリアの足音が近づくと、ショーケースを見つめていたリリスの肩が微かに跳ね、ゆっくりと振り返った。
その顔には、精巧に作られた磁器人形のような、感情の欠片も見当たらない完璧な微笑みが貼り付いていた。
嵐のような少女、エリナが風のように去った後の店内には、奇妙な静寂が澱んでいる。
カシリアは階段を上がりきり、二階のブレスレット売り場の前で立ち尽くすリリスに声をかけた。
「……リリス。待たせたな」
「……ええ。お帰りなさいませ、殿下」
リリスの声は鈴の音のように澄んでいたが、そこには以前のような温度がない。
まるで、透明な氷の壁越しに会話しているようだ。
彼女の視線はカシリアの顔ではなく、その背後――先ほどまでエリナがいた空間の残滓を見ているようにも思えた。
「気に入ったものは見つかったか?」
カシリアは努めて明るく振る舞い、彼女が見つめていたショーケースを覗き込んだ。
そこには、繊細な銀細工にアクアマリンをあしらった、涼やかなブレスレットが並んでいる。
「ええ……どれも素敵で、迷ってしまいますわ」
リリスは扇子を閉じた手で、ショーケースのガラスを愛おしげになぞる。
だが、その指先は白く強張っていた。
「なら、俺が――」
選んでやろうか、あるいは贈ろうか。
カシリアがそう言いかけた言葉を、リリスは遮るように、しかし優雅に首を横に振った。
「ありがとうございます。お気持ちだけ頂戴いたします」
「でも、これは……侍女に相談してから決めることにします」
柔らかく、しかし断固たる拒絶。
カシリアは言葉を詰まらせた。
「……そうか。だが、せっかく来たのだ。もう少し見ていけば――」
「いいえ。今日はもう、戻りますので」
リリスは間髪入れずに答え、踵を返した。
その動きには、一刻も早くこの場から逃れようとする焦燥が見え隠れしていた。
「え……もう?」
「はい。最初から、そのつもりでしたし」
彼女は一礼し、カシリアの横をすり抜けていく。
その際、ふわりと香ったのは、高級な香水の中に混じる、どこか冷たく寂しい冬の匂いだった。
カシリアは咄嗟に引き留めることもできず、ただ呆然とその背中を見送った。
(……おかしい)
胸の奥に、棘のような違和感が残る。
店に入る前、彼女は確かに言っていたはずだ。
『ファティーナへの贈り物だもの。ちゃんと自分で選びたいの』と。
それなのに、「侍女に相談する」とはどういうことだ?
矛盾している。
さらに言えば、あのエリナという少女が騒いでいた時、リリスはどこにいた?
彼女の声を聞いていなかったのか?
あるいは――聞いていたからこそ、逃げるように去っていくのか?
カシリアは空になった階段を見つめ、独りごちた。
「……俺は、また何かを見落としているのか?」
店の外に出た瞬間、リリスの表情から微笑みが剥がれ落ちた。
呼吸が荒くなる。
肺が酸素を求め、心臓が悲鳴を上げている。
限界だった。
あの場所に、カシリア殿下と、あの「エリナ」の残り香が漂う空間に居続けることは、魂をやすりで削られるような苦痛だった。
殿下とエリナの親しげなやり取り。
指切り。
借金。
笑顔。
私には向けられたことのない、無防備で対等な信頼関係。
それを見せつけられた後で、平然と買い物を続けることなど、できるはずがない。
「お嬢様!」
馬車の影で待機していたロキナが、リリスの姿を認めて駆け寄ってくる。
その顔には、主人が無事に戻ってきたことへの安堵が浮かんでいた。
「ロキナ」
リリスは足を止めず、早口で命じた。
「お願いがあるの」




