第71話 指切りの、約束
……母を、貴族に。
昨夜見た、あの儚げで幸薄そうな母親。
彼女のために、この少女は泥水をすすり、剣を振るってきたのか。
尊い志だ。
美しい親子愛だ。
だが――その理想は、あまりにも残酷なほど、現実を知らない。
(……それがどれほど非現実的な絵空事か、理解している者ほど、そんな夢は口にしない)
カシリアは内心で冷ややかな分析を下す。
上流貴族が、どこの馬の骨とも知れない平民出身者を、正規の護衛として採用することなどまずあり得ない。
身元保証、血筋、コネ、そして洗練されたマナー。
それらを持たない者を懐に入れるリスクを、貴族は誰よりも恐れる。
さらに言えば、「騎士叙任」などという栄誉は、平民にとっては宝くじに当たるよりも難しい。
使い潰されるのがオチだ。
危険な任務の捨て駒にされ、報酬もろくに払われず、怪我をすれば即座に解雇。
最悪の場合、主人の不始末を押し付けられ、名もなき罪人として処刑される。
それが、下級護衛の末路だ。
数千人に一人、奇跡的に這い上がる者がいるかもしれない。
だがその陰には、無数の屍が、誰にも顧みられることなく積み上がっている。
若いうちはいい。
体力と勢いで誤魔化せる。
だが、年を取れば?怪我をすれば?
待っているのは、野垂れ死ぬだけの未来だ。
「……まあ、夢を見るのは自由だ」
カシリアは、喉まで出かかった残酷な真実を飲み込んだ。
この少女から、その無知ゆえの希望を奪う権利は、自分にはない。
それに、彼女の目はあまりにも眩しかった。
自分の限界を知らず、社会の壁を知らず、ただ己の力だけで世界を切り拓けると信じている、愚直なまでの光。
その光は、宮廷の陰謀と打算の中で生きるカシリアにとって、奇妙なほど新鮮で、心を惹きつけるものだった。
「……いいだろう」
カシリアは小さく息を吐き、店員に向かって指を弾いた。
「三金貨二十七銀貨、彼女に貸してやる。……不足分も、私が持つ」
店員が慌てて平伏する。
「は、はい!直ちに!」
「うわあああ!本当ですか!?ありがとうございます殿下!!」
エリナは飛び跳ねんばかりに喜び、カシリアの手を両手で握りしめた。
その掌の硬くザラついた感触が、カシリアの皮膚に伝わる。
「必ず!絶対に返しますからね!出世払いで!」
「……期待せずに待っているよ」
カシリアが苦笑すると、エリナは急に真顔になり、右手の小指をスッと差し出してきた。
「……なんだ、それは」
「え?指切りですよ!殿下知らないんですか!?こうやって、指を絡めて……」
「……どこの田舎の風習だ」
呆れ返るカシリアだったが、エリナの強引な視線に負け、渋々自分の小指を差し出した。
小指と小指が絡み合う。
王太子の白く手入れされた指と、平民の傷だらけで節くれだった指。
異質な二つの存在が、奇妙な結びつきを持った瞬間だった。
「ゆーびきーりげんまん!嘘ついたら針千本飲ーます!」
「……物騒な魔法だな」
エリナは悪戯っぽく笑い、カシリアもまた、つられて口元を緩めた。
この時、カシリアは気づいていなかった。
背後の階段の踊り場で、リリスが幽鬼のような顔をして、その光景を見下ろしていることに。
そして、その「指切り」の仕草が、かつて幼いリリスが父と交わした、今はもう失われた親愛の儀式と同じものであることに。




