第67話 エリナ…
白亜の馬車が、公爵家の馬車のすぐ後ろに停車し、砂埃を上げていた。
明らかに、追ってきていたのだ。
なぜ?
私の心臓が早鐘を打つ。
扉が開き、そこから現れた人物を見て、私は息を呑んだ。
カシリア殿下。
護衛も最小限に、簡素だが上質な平服を纏い、まるで獲物を追い詰めた狩人のような目で私を見ていた。
「し、失礼いたします。殿下……」
私は反射的に膝を折り、礼を取った。
視線を合わせられない。
昨夜の失態、そして私の秘密を知るかもしれないという恐怖が、私を萎縮させる。
「リリス……あの……昨日……」
殿下が私に歩み寄り、何かを言いかけて口ごもった。
その表情には、王太子としての威厳と、一人の青年としての戸惑いが同居していた。
沈黙が痛い。
私は耐えきれず、顔を上げた。
「……殿下、本日はどういったご用件でしょうか?」
「侍女から聞いたんだ。君が東屋の椅子で倒れていて、足も少し怪我をしていたと。……無事かどうか、それを確かめたくて」
殿下の視線が、私の足元へ、そして手袋をはめた左手へと動く。
足の怪我。
昨夜、私が裸足で彷徨った代償。
それを知っているということは、殿下はやはり、あの夜の私を詳細に見ていたということだ。
「昨日は、ご迷惑をおかけしました。ご心配をおかけして申し訳ありません」
私は深く頭を下げた。
顔を上げられない。
恥辱と恐怖で、頬が熱くなる。
「おかげさまで、足ももう大丈夫です」
無理やり作った微笑みは、引きつっていたかもしれない。
殿下は小さく息をつき、肩の力を抜いた。
「……それなら、よかった」
安堵の色。
……それだけのために?
王太子が、公務を放り出してまで、一介の貴族令嬢の足の怪我を確認しに来たというの?
「今日は、ファティーナの誕生日の贈り物を買いに来ました」
早くこの場を立ち去りたい一心で、私は用件を告げる。
「ひとりで出歩くのは危険だ。護衛もいないのだろう?」
「いえ、ロキナと……」
振り返った私は、言葉を失った。
ロキナも、御者も、馬車ごと数十メートル後方へ移動していた。
殿下の護衛たちが、巧みに彼らを遠ざけていたのだ。
「ちょうど俺も宝飾品を買う用事がある。一緒に行こう」
殿下は有無を言わせぬ口調で告げた。
それは提案ではなく、命令だった。
拒否権など、最初から私にはない。
カラン、と涼やかな鐘の音が鳴り、重厚な扉が開かれる。
「いらっしゃいませ……カ、カ、カシリア殿下!?」
出迎えた店主の目が飛び出しそうになる。
店内は一瞬で静まり返り、次いで蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
「騒ぐな」
殿下の一言。
絶対零度の声色が、店内の空気を一瞬で凍結させた。
「リリス嬢の買い物に付き合っているだけだ。特別扱いは不要だが……邪魔はするな」
店員たちが震え上がり、蜘蛛の子を散らすように距離を取る。
私たちは、不自然なほど静まり返った店内を、並んで歩いた。
ショーケースの中では、ダイヤモンドやサファイアが冷たい光を放っている。
「これなど、どうだ」
殿下が指差したのは、深紅のルビーがあしらわれた髪飾りだった。
あの日、私が庭園に落としたものと、よく似ていた。
「……素敵ですが、私には少し派手すぎますわ」
私は視線を逸らす。
殿下の意図が読めない。
試しているの?
それとも、本当にただの気遣い?
前世の記憶にある殿下は、私にこれほど関心を持たなかった。
この「優しさ」は、私を救済するためのものなのか、それとも新たな断罪への布石なのか。
思考が空転する。
私は逃げるように、隣のショーケースへ移動した。
そこで、一つのネックレスに目が留まる。
白銀で作られた繊細な雪の結晶。
その中心に翡翠が埋め込まれ、周囲を瑪瑙が彩っている。
冷たく、美しく、そしてどこか儚い。
八十金貨。
ファティーナへの贈り物には高価すぎるが、これなら彼女の虚栄心を満たせるだろう。
(少し手を加えれば……特注品にできる)
そう考えて、店員を呼ぼうとした時だった。
「お金は持ってるって言ってるでしょ!?なんで入れないのよ!」
入口付近から響き渡ったその声は、静謐な店内の空気を暴力的に引き裂いた。
ガラスが共鳴するほどの甲高い響き。
品性のかけらもない、聞く者の神経を逆撫でするような音色。
私の心臓が、跳ねるのを忘れて止まった。
指先から血の気が引き、持っていた扇子が手から滑り落ちそうになる。
呼吸ができない。
肺が鉛のように重い。
この声。
この、鼓膜を直接殴りつけるような、無遠慮な声。
間違えるはずがない。
私の魂に焼き印のように刻まれた、呪いの旋律。
「お客様、ここは会員制でして……」
「だから!お父様がくれたお金があるってば!パパがここならいいものがあるって言ったんだよ!」
パパ。
その単語が、鋭利なナイフとなって私の胸を刺し貫く。
父が、彼女に教えたの?
私には、ロキナに任せきりにしていたくせに。
彼女には、自分の口で、この店のことを教えたの?
「……エリナ……」
唇が震え、音にならない名前を紡ぐ。
視界の端で、入口で暴れる少女の姿が見えた。
派手なサファイア色のドレス。
無造作に結い上げられた金髪。
そして、太陽の下で育ったような、健康的な小麦色の肌。
私から、父を奪った女。
私から、未来を奪った女。
もし、少しでも心に残ったら、
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