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第66話 逃げたい

「そういえば、リリス様。先週お預かりしていたお手紙がありました。すっかりお渡しするのを忘れていて……」


部屋に入ってきたロキナの言葉に、私は鏡の前で作っていた仮面の角度を修正した。


朝の日差しが差し込む室内で、私の顔色は死人のように白い。


けれど、口角を持ち上げ、瞳に偽りの光を灯せば、そこには完璧な公爵令嬢が完成する。


「ありがとう。見せてちょうだい」


受け取った封筒は、甘ったるい香水の匂いを放っていた。


封を切り、中身を取り出す。


金箔で縁取られたカードには、流麗な筆記体で『ファティーナ・ベルジュ・誕生祝賀会への招待』と記されていた。


日付は明日。


ああ、そうだったわね。


学園の食堂で、彼女が新しいドレス自慢をしている横で、私は適当な相槌を打ちながら約束したのだ。


『王都の宝飾店で、あなたの瞳に似合うルビーのアクセサリーを見繕って贈るわ』と。


そんな些細な約束さえも、昨夜の絶望の波に洗われて、記憶の岸辺から消え去ろうとしていた。


今日は休日。


屋敷にいれば、父の視線に怯え、ミカレンの幻影に苛まれることになる。


外出は、正当な逃避の理由になる。


「ロキナ。王都で買い物をしたいの。付き添ってくれる?」


「えっ?お嬢様がご自分で行かれるのですか?」


ロキナが目を丸くする。


無理もない。


私が自ら人混みへ出向くことなど、これまでは稀だった。


「ファティーナへの贈り物だもの。ちゃんと自分で選びたいの」


嘘だ。


ただ、屋敷の澱んだ空気から逃げ出し、無機質な商品の輝きに目を焼かれたいだけ。


「かしこまりました!すぐ準備いたします!」


ロキナの弾んだ声が、私の空虚な心に虚しく響いた。


公爵家の紋章が入った馬車は、王都への石畳を滑らかに進んでいた。


窓の外を流れる風景は、豊穣の秋を迎え、黄金色に輝いている。


だが、私の目にはすべてが灰色に見えた。


左手にはめた真っ白な手袋。


カシリア殿下から贈られたというこの布切れの下には、私が世界を拒絶しようとした証が刻まれている。


指先でその箇所をなぞり、微かな痛みに安堵する。


私はまだ、生きている。


生かされている。


「リリス様。今、王家の紋章がついた馬車が、反対方向から来ましたよ。今日はカシリア殿下とお約束でも?」


ロキナの声に、私はビクリと肩を揺らした。


反対方向?


窓の外に視線を向けると、確かに白亜の馬車がすれ違っていくのが見えた。


「いいえ……たぶん父のもとへ向かっているのでは?」


平静を装って答えるが、心臓が嫌な音を立てて跳ねた。


昨夜の件。


殿下は私を「泥酔した」と言って送り届けた。


だが、本当にそれだけだったのか。


あの潔癖な殿下が、なぜそこまでして私を庇ったのか。


もしかして、気づかれているのではないか。


私の心の闇に。


私の罪に。


不安が黒いインクのように胸の中で広がる。


王族の馬車が、事前通告もなく貴族の馬車とすれ違うなど、異常事態だ。


しかも、今は公務の時間帯ではない。


前世の記憶を辿っても、このような出来事は存在しなかった。


運命の歯車が、私の知らない場所で軋みを上げている。


王都の中心街。


大陸全土から富が集まるこの場所は、今日も着飾った人々で溢れかえっていた。


馬車を降り、私は深く息を吸い込んだ。


都会の埃っぽい空気さえも、今は屋敷の清浄すぎる空気よりマシに思える。


「ここで間違いありませんか?」


「はい。王都で最も格式ある宝飾店です。貴族の案内がなければ、平民は中に入ることすらできません」


ロキナが誇らしげに店舗を指差す。


重厚な大理石の柱、磨き上げられたガラスのショーウィンドウ。


そこは選ばれた者だけが入場を許される、特権階級の聖域。


私が一歩踏み出そうとした、その時だった。


背後から、石畳を叩く激しい蹄の音が迫ってきた。


「リリス様!さっきの王家の馬車です!」


ロキナの叫び声に振り返る。



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