第65話 偽善者
私は枕に顔を埋め、シーツの冷たい感触に縋り付いた。
今日は、成績発表後の休日だというのに。
体を休めたところで、魂に刻まれた疲労は決して癒えない。
昨夜、網膜に焼き付いた残酷な光景が、瞼の裏で延々と再生される。
バルコニーでの父上の笑顔。
ミカレンの安らぎ。
そして、太陽のように笑うエリナ。
あれは幻覚ではない。
もうすぐ私の現実となる、確定した未来だ。
父の再婚。
新しい母と、姉。
完成される、絵画のように美しい家族の肖像。
そこに、私の居場所など最初から用意されていない。
私はただ、ガラス一枚隔てた暗闇の中から、その幸福な家庭劇を指をくわえて眺めるだけの、惨めな観客に過ぎない。
昨夜の夢は、まるで死にゆく者が見る走馬灯のようだった。
幼い頃、両親と過ごした黄金色の記憶。
前世の牢獄で味わった、泥と血の味。
そして最後に訪れた、救いようのない絶望。
それでも不思議と、胸の奥は少しだけ軽かった。
これが、酒の魔法なのだろうか。
思考を麻痺させ、痛みを一時的に遠ざける、甘美な毒。
私は天井に向けて両手をかざした。
何も掴んでいない。
今世でも、結局私は、何一つ守り抜くことができなかった。
白く、細く、弱々しいこの手。
公爵令嬢の象徴として磨き上げられ、人々が羨み、詩人が称賛する雪のような肌。
けれど、この手はあまりにも無力で、自らの幸福さえも掴み取ることができない。
私は偽善者だ。
最初は家のために、母の遺言を守るために社交界を渡り歩いていたはずだった。
だが気づけば、称賛という名の虚栄の美酒に酔いしれていた。
苦い葡萄酒のような人生。
飲めば苦しく、内臓を焼き尽くすが、酔いが回れば一時の甘い夢を見せてくれる。
滑稽だ。
あまりにも滑稽で、涙が出る。
完璧な人間など、この世のどこにも存在しない。
それなのに、人は他者に完璧を求め、また自らも完璧であろうとする。
そして私は、心も体も傷だらけのまま、完璧な令嬢という重たい仮面を、死ぬまで被り続けることを強いられている。
父は、私を本当に優しい娘だと思っているのだろうか。
文句一つ言わず、すべてを受け入れ、微笑んでみせる従順な娘だと。
その檻を作ったのは、他ならぬ私自身だ。
少しでも公爵令嬢らしくない振る舞いをすれば、自ら課した戒めの鎖が肉に食い込み、心を血で染める。
エリナを憎まない。
ミカレンを憎まない。
そう誓ったはずなのに。
父の愛が、私以外の誰かに分け与えられることを、どうしても許せなかった。
私は、なんて卑怯で、狭量な人間なのだろう。
平民たちから見れば、私の苦しみなど、絹のドレスに包まれた贅沢な悩みに過ぎないだろう。
我慢すればいいじゃないか。
公爵令嬢として何不自由なく暮らしているのだから。
あんなに恵まれていて、幸せなんでしょう。
誰も、私の魂の飢餓に共感などしてくれない。
だから私は、誰にも言わない。
言えない。
暗闇の中で一人膝を抱え、ただ傷口を舐めるだけ。
だが、この痛みは消えない。
どれだけ理屈で蓋をしても、膿んだ傷口からは絶えず悲しみが溢れ出してくる。
それでも。
それでも、私は父を愛している。
この世に残された、最後の家族。
それを失うくらいなら。
私は。
ベッドから身を起こし、鏡の前に立つ。
そこには、蒼白だが、整った顔立ちをした少女が映っている。
公爵令嬢として生きる。
公爵令嬢として笑う。
そして、公爵令嬢として死ぬ。
それが、私の選んだ道だ。
なぜなら私は、自分で作り上げ、研ぎ澄ませた、最も完璧な操り人形なのだから。
人形に涙は不要だ。
人形に心は不要だ。
ただ美しく、主人の望むままに踊り続ければいい。
たとえその糸が、私の首を絞め上げるとしても。
私は鏡の中の自分に向かって、冷たく、そして完璧に微笑んでみせた。
おはよう、リリス。
今日も、素晴らしい演技を始めましょう。




