第64話 死ねなかった
「ママっ!」
肺の底から弾け飛んだ幼子の悲鳴と共に、私は粘つく悪夢の泥沼から現世へと引きずり戻された。
跳ね起きた勢いで心臓が早鐘を打ち、喉の奥には焼き付くような渇きが張り付いている。
慌てて両手で口を覆い、荒い呼吸を押し殺す。
誰かに聞かれたら、取り返しがつかない。
公爵令嬢が、あのような無様な声を上げて目覚めるなど、許されるはずがないのだから。
視界に映り込んだのは、見慣れた優美な天井の漆喰細工と、ステンドグラス越しに差し込み、塵を黄金色に染め上げる柔らかな朝光だった。
ここは、私の部屋。
また、転生したのか。
一瞬、そんな馬鹿げた思考が脳裏を掠める。
反射的に左手へと視線を落とす。
そこには、白磁のような肌を汚す、細く赤い線が刻まれていた。
乾いたかさぶたが、昨夜の狂気が幻ではなかったことを無言で告発している。
違う。
死んだわけではない。
私は手首を硝子の破片で切り裂こうとして、そのまま不様に酔い潰れただけだ。
情けなくて、乾いた笑いが込み上げてくる。
死ぬことさえ、私には許されないというのか。
それとも、あの泥酔こそが、神が与えた唯一の慈悲だったのか。
だが、疑問が氷柱のように胸に突き刺さる。
ならば、どうして私はここにいる?
誰が、あの薔薇園の廃墟から私を運び出した?
まさか。
全身の血液が凍りつくような悪寒が走る。
私が自ら命を絶とうとしたことが、露見したのではないか。
必死に昨夜の記憶の糸を手繰り寄せる。
硝子の切っ先を握りしめ、皮膚に押し当てた感触。
そこまでは鮮明だ。
けれど、そこから先は深い霧に覆われている。
プツリと途切れた意識の先にあるのは、ただ圧倒的な闇だけ。
これが、酔うということなのか。
生まれて初めて味わった、理性の断絶。
前世で、あのエリナと祝杯を挙げた夜以来の、忌まわしい泥酔の感覚。
「ロキナ。いるの?」
不安に耐えきれず、私は声を張り上げた。
声帯が軋み、掠れた音が出る。
「はい、リリス様。お目覚めですか。」
扉が開き、ロキナが盆を手に姿を現した。
彼女の表情には、いつもの忠実な影に加えて、どこか浮き足立ったような、奇妙な明るさが宿っていた。
その機嫌の良さが、私の疑念を一層深める。
「昨日、どうやって帰ってきたの。途中から記憶がなくて。」
私は努めて冷静を装い、探りを入れる。
「えへへ、昨夜は。あっ。」
ロキナは言いかけて、急に言葉を飲み込んだ。
視線が泳ぎ、頬が微かに紅潮する。
「えっと、カシリア殿下が、リリス様が酔われているのを見つけてくださって。私と公爵様でお連れ帰りました。」
カシリア殿下。
心臓が嫌な音を立てて収縮する。
殿下の名が出たことに、本能的な警鐘が鳴り響く。
「殿下は、なにか言ってた。」
「特には。殿下何も仰っていませんでしたわ。ただ、リリス様をとても大切に扱われていて。」
ロキナの声色には、隠しきれない安堵と喜びが滲んでいる。
嘘をついているようには見えない。
だが、その言葉の裏には、決定的に欠落している真実の気配がある。
口止めされたのか。
それとも、私と殿下の関係を、彼女が勝手に好意的に誤解しているだけなのか。
私の自殺未遂は、知られていないのか。
もし知られていれば、ロキナがこれほど穏やかに笑っているはずがない。
「そ、そう。ありがとう。」
安堵と不安の入り混じった吐息を漏らす。
「少し休まれますか。」
「うん、少しだけ。」
ロキナが一礼して部屋を出て行くと、静寂が再び部屋を満たした。




