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第60話 最適な婚約者

重厚な執務机に広げられた羊皮紙の束が、カナロアの視界を埋め尽くしていた。


本来ならば、この場は祝杯を挙げるための前段階となるはずだった。


我が息子カシリアと、タロシア家の至宝リリス。


この二人の婚約を、長年の友であるカストと共に、静かに、しかし確実に固めるための密談。


だが、その目論見は脆くも崩れ去った。


友が持ち込んだのは、吉報ではなく、王家の根幹すら揺るがしかねない時限爆弾であった。


「……冗談のつもりか、カスト。笑えない話だぞ」


カナロアの声は低く、地を這うような重みを帯びていた。


玉座に座る者としての威厳と、友人としての苛立ちが混ざり合う。


目の前に立つカスト・タロシア公爵は、憔悴の色を隠そうともせず、ただ深々と頭を垂れたままだ。


「……申し訳ありません。しかし、私は本気です。陛下」


その言葉に嘘はないのだろう。


彼という男は、昔から愚直なまでに誠実で、それ故に救いようがないほど不器用だ。


カシリアがこの場にいなくて正解だった。


あの潔癖で直情的な息子ならば、机をひっくり返し、父親の友であろうと罵倒を浴びせていたに違いない。


カナロアは嘆息し、再び机上の資料へと視線を落とした。


「……ここまでの証拠を揃えてこられては、法的にも反論は難しいな……」


出生証明書。


医師の証言録。


そして、時系列を記した詳細な報告書。


どれもが、一つの動かぬ事実を指し示していた。


ミカレン・バード。


かつて王立学院を卒業した直後に失踪し、事故死として処理された元伯爵令嬢。


彼女が生きており、あろうことかカストの子供を産み育てていたという事実。


そして、その娘エリナ。


平民街の泥にまみれて育ち、礼儀作法も学問も知らぬ野生の少女が、タロシア公爵家の長女として認知されようとしている。


リリスよりも年上の、もう一人の娘。


(……カスト、お前はまた同じ過ちを繰り返すつもりなのか)


カナロアの脳裏に、かつての苦い記憶がよぎる。


若き日の過ち。


情動に流された結果の代償。


それが今、形を変えて再来しようとしている。


そして今回、その歪みの犠牲となるのは、誰あろうリリスだ。


「……お前は考えたのか。リリスがどう思うかを」


カナロアは鋭い視線を友に向けた。


これが、王として、そして親として最も懸念すべき点だった。


最愛の母サリスを亡くして、まだ一ヶ月も経っていない。


喪失の悲しみが癒えるどころか、より深く魂に刻まれている時期だ。


そんな時に、父親が新しい妻と、自分より年上の隠し子を連れてくる。


「家族が増える」などという甘い言葉で誤魔化せるような話ではない。


それはリリスにとって、母への冒涜であり、自身の存在意義への挑戦に他ならない。


カストはしばらくの間、沈黙を守っていた。


視線が泳ぎ、指先が微かに震えている。


やがて、彼は自分に言い聞かせるように、震える声で言った。


「……リリスは優しい子です。理解力もあり、成績も良く、家でも何一つ不満を言わない……きちんと説明すれば、きっと分かってくれると……私は、信じています」


その言葉の空虚さが、執務室の空気を冷やす。


「信じている」のではない。「そうであってほしい」という願望に過ぎない。


顔に浮かぶ不安と怯えが、彼の心中を雄弁に物語っていた。


彼はリリスを愛している。


それは間違いない。


だが、彼はリリスの心を理解していない。


あの子がどれほどの自制心で「完璧な娘」を演じているか、その仮面の下でどれほどの血を流しているか、この父親は気づいていないのだ。


「……はぁ……」


カナロアは重く、肺の底からため息を吐き出した。


説得は無理だ。


この男は一度思い込んだら、岩のように動かない。


責任感という名の鎖に縛られ、それが周囲を傷つける刃になっていることにも気づかない。


「分かった。……書類は預かる。だが、正式な受理は少し待て。時期が悪すぎる」


「……感謝します、陛下」


カストは深く一礼し、逃げるように執務室を後にした。


扉が閉まり、静寂が戻った室内で、カナロアは椅子に深く身体を沈めた。


天井のフレスコ画を見上げながら、思考を巡らせる。


タロシア公爵家の内紛。


これは単なる一貴族の家庭問題ではない。


リリス・タロシアは、次期王太子妃の最有力候補だ。


彼女の能力、美貌、家柄、そして何よりその精神性。


王族に求められる資質を、彼女は過剰なほどに備えている。


だが、同時にカナロアは感じていた。


リリスという少女の、得体の知れない「異質さ」を。


社交界の中心にいながら、彼女は誰とも深く魂を交わらせない。


周囲を完璧に制御し、望む反応を引き出し、自分にとって有利な盤面を作り上げる。


その手腕は、十代の少女のものとは思えないほど老練で、冷徹だ。


親しい友人さえも、彼女にとっては手駒の一つに過ぎないのではないか。


経験豊富な国王である自分の目をもってしても、彼女の心の深淵を覗くことはできない。


まるで、精巧に作られた美しい自動人形。


あるいは、感情という不要な回路を焼き切った、氷の女王。


(……太子妃の座は、彼女にとっては“金の鳥籠”かもしれんな)


王家というシステムの中に彼女を組み込むことは、彼女の人間性を完全に圧殺することになるかもしれない。


だが、政治的にはそれが最適解だ。


カシリアには、彼女のような補佐役が必要だ。


情熱的で理想を追うカシリアと、冷徹で現実的なリリス。


二人が揃えば、メニア王国は盤石となる。


だからこそ、必ず手に入れなければならない。


王とは、時に非情な決断を下さねばならぬ生き物なのだから。



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