第59話 壊れかけの硝子細工
カシリアは腕の中のリリスをさらに強く抱き寄せ、彼女の乱れた呼吸が落ち着くのを待った。
華奢な背中は小刻みに震え続け、まるで凍えた雛鳥のようにカシリアの体温を求めていた。
「リリス……」
名前を呼ぶ声は、祈りのように静かで、そして痛切だった。
カシリアの腕を通して伝わってくる彼女の鼓動は、速く、頼りなく、今にも止まってしまいそうなほど脆い。
柔らかく温かいその身体を抱きしめながらも、カシリアの胸の内では、冷たい刃で切り刻まれるような苦痛が渦巻いていた。
一体、何が起きたというのか。
何が、気高く誇り高い君を、これほどまでに無惨な姿へと変えてしまったのか。
あの祝宴の光の中で、君は何を見て、何を感じ、そして何を捨てようとしたのか。
カシリアは歯を食いしばり、問いかけることのできない疑問を飲み込んだ。
君の頭の中を覗くことができれば。
君を蝕む悪夢の正体を知ることができれば、この手で切り裂いてやれるのに。
だが、どれほど強く抱きしめても、二人の間には見えない断絶の壁が聳え立っている。
「求む、リリス……」
カシリアは彼女の耳元で、掠れた声を絞り出した。
「頼むから、そんな顔をしないでくれ。そんな、世界の終わりを見たような、絶望の色を浮かべないでくれ」
母君が亡くなられた悲しみは深いだろう。
その傷が癒えていないことは知っている。
だが、君は独りではないはずだ。
学院には君を崇拝し、君の背中を追う者たちが大勢いる。
ロキナという忠実な家族がいる。
君を誰よりも愛し、大切に思っている父公爵がいるではないか。
そして――オレもいる。
オレの存在は、君にとって何の慰めにもならないのか。
オレが差し伸べる手は、君の孤独の深淵には届かないというのか。
カシリアの悲痛な問いかけは、虚空へと吸い込まれ、ただ静寂だけが返ってきた。
リリスの唇から漏れていたうわ言は、次第に途切れがちになり、やがて完全に消え失せた。
痙攣していた四肢から力が抜け、身体全体が重力に従ってぐたりと沈み込む。
それは安らかな入眠などではなかった。
まるで、底なしの沼へと引きずり込まれるように、あるいは生命の灯火がフッと吹き消されるように、彼女の意識は唐突に断ち切られた。
「……リリス?」
カシリアは恐る恐る彼女の顔を覗き込んだ。
長い睫毛が影を落とすその顔は、死人のように蒼白で、生気を感じさせない。
夢の中の絶望に喰らい尽くされ、魂だけがどこか遠くへ連れ去られてしまったかのようだ。
先ほどまで漏らしていた、「死にたくない」「助けて」という言葉。
その一言一句が、呪いのようにカシリアの心臓に棘となって突き刺さる。
彼女は今、夢の中で再びあの孤独な地獄を彷徨っているのだろうか。
誰もいない、暗く冷たい場所で、血を流しながら助けを求めているのだろうか。
直前まで見せていたあの錯乱、あの恐怖。
あれが彼女の真実の姿なのだとしたら、普段見せている完璧な令嬢としての振る舞いは、あまりにも分厚く、そして脆い鎧だったということになる。
カシリアは彼女のこめかみに張り付いた髪を、震える指先でそっと払った。
彼女は今、深い眠りの淵へと戻っていった。
まるで最初から目覚めてなどいなかったかのように、静かな寝息すら立てずに横たわっている。
だが、その頬に残された一筋の涙の痕だけが、彼女が味わった苦しみの深さを、無言のうちに、しかし雄弁に物語っていた。
硝子細工のようなその痕跡を、カシリアは親指で慎重に拭い去った。
冷たい。
涙さえも、凍りついているかのようだ。




