第58話 首が、痛い
リリスの喉から、鋭く短い悲鳴が迸る。
身体がシーツの上で跳ね、カシリアの手から逃れようと藻掻いた。
「……痛い……っ、首が……痛い……」
その声は次第に弱々しく、消え入りそうな囁きへと変わっていく。
だが、固く閉ざされた瞼の下から溢れ出る涙は止まることを知らず、漆黒の虚空を見つめる瞳からは光が失われていた。
リリスの両手が、震えながら自身の細い首へと伸びる。
何か見えない凶器から身を守ろうとするかのように、あるいは噴き出す鮮血を必死に押し留めようとするかのように、彼女は自身の喉元を強く押さえた。
小刻みに震える肩。
引き攣る唇。
そこに在るのは、純粋な恐怖だった。
「首……?」
カシリアは消毒用の綿を置き、慌ててリリスの首筋を覗き込んだ。
月光に晒されたその肌は陶磁器のように白く滑らかで、傷一つ、痣一つ存在しない。
脈打つ血管が透けて見えるほど華奢なその首に、痛みをもたらす要因など、どこにも見当たらなかった。
「……血が……たくさん流れて……怖い……」
リリスはカシリアの存在など感知していないかのように、虚ろな視線を天井へと彷徨わせたまま、ベッドの上で硬直していた。
声は掠れ、風前の灯火のように頼りない。
「リ、リリス!?しっかりしろ、リリス!」
カシリアは彼女の肩を掴み、強く呼びかける。
だが、その声は彼女を覆う分厚い硝子の壁に弾かれ、決して内側には届かない。
「血が……助けて……」
焦点の合わない瞳から、ただひたすらに涙だけが流れ落ち、枕を濡らしていく。
その表情は、悲嘆や絶望と呼ぶにはあまりにも空虚だった。
糸の切れた操り人形。
魂の抜け落ちた器。
ただ「死」という概念への原初的な恐怖だけが、その肉体を支配していた。
「首から……血がいっぱい……寒い……」
リリスがガタガタと歯を鳴らす。
失血による体温低下の幻覚なのだろうか。
それとも、彼女が見ている悪夢の中では、本当に生命が流出しているのだろうか。
「リリス!!」
カシリアは迷わず、震える彼女の体を強く抱きしめた。
自身の体温を、鼓動を、生きている証を、この凍てついた少女へと注ぎ込むように。
強く、壊れるほどに強く。
「……ママ……どこ……?」
胸元で漏れたその言葉に、カシリアの動きが止まった。
ママ。
「お母様」でもなく、「母上」でもなく。
幼子が絶対的な庇護者を求める、その無垢で無防備な響き。
普段、鉄壁の礼儀と誇りで武装していた公爵令嬢の口から零れたそれは、あまりにも痛々しい退行だった。
「ママ……ひとりぼっち……嫌……」
「置いていかないで……」
リリスの両手は、未だに自身の首を覆ったままだ。
見えない傷口を塞ごうと、必死に指を食い込ませている。
その指の隙間から、彼女にしか見えない鮮血が溢れ出しているかのように。
「血が……まだ、死にたくない……助けて……」
懇願。
それは生への渇望であり、同時に逃れられない死への恐怖だった。
「リリス!」
カシリアは叫ぶ。
「オレはここにいる!誰も君を殺させはしない!目を覚ましてくれ!」
何度呼んでも、リリスは彼を見ない。
彼女は今、カシリアの腕の中にいながら、遥か彼方の冷たい牢獄の中に囚われている。
そこは光の届かない、絶対的な孤独の底。
「寒い……暗いよ……怖い……」
「ママ……」
「……助けて」
その声は、深海に沈む泡のように、静寂の中へと溶けて消えた。
カシリアの腕の中で、リリスの体温だけが、残酷なほど温かく彼に伝わっていた。




