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第57話 完璧令嬢は、自殺未遂

「リリスッ!?」


カシリアは叫びにも似た声を上げ、横たわるリリスの傍らへ身を投げ出した。


震える指先を、恐る恐る彼女の鼻先へと差し伸べる。


温かい風が、指の腹を微かに撫でた。


「……生きている……」


肺から空気が一気に抜け、全身の力が抜けるような安堵感が押し寄せる。


ドレスの胸元を汚す赤は、鉄錆の臭いを放つ鮮血ではなく、芳醇な葡萄の香りを漂わせていた。


どうやら、ドレスに染み込んだ赤の正体はワインが大半のようだ。


だが、安堵は刹那。


カシリアの視界に飛び込んできた光景は、新たな戦慄となって彼の心臓を冷たく掴んだ。


周囲に散乱する、砕け散ったワイングラスの残骸。


そして、リリスの白い肌に刻まれた、あまりにも不吉な痕跡。


右手に握りしめられた鋭利な硝子片。


左手首に刻まれた、深く歪んだ赤い線。


「……馬鹿な」


呼吸が止まる。


その傷が何を意味するか、理解したくないという拒絶と、理解してしまった絶望が同時に脳髄を駆け巡る。


ほんの少し力が強ければ。


ほんの少しだけ深く食い込んでいれば。


彼女の命の灯火は、今この瞬間には消え失せていただろう。


あの完璧で、気高く、誰よりも生に執着していたはずのリリスが。


自ら命を絶とうとした?


「なぜだ……」


カシリアの脳裏に、以前見た光景が蘇る。


誰にも見せない涙を流していた彼女。


世界から切り離されたような、孤独な背中。


今日の彼女もまた、あの煌びやかな祝宴の中で、独りだけ色彩を失っていた。


まるで、透明な硝子の箱に閉じ込められ、外の世界の歓喜をただ眺めることしか許されない囚人のように。


「誰が……誰が君をここまで追い詰めたのだ……?」


問いかけても、答えはない。


ただ、リリスから漂う濃密な酒の匂いと、泥のように深い眠りが、彼女の抱える闇の深さを無言で物語っていた。


思考の迷路に囚われている時間はない。


カシリアは唇を噛み締め、リリスの身体を抱き上げた。


軽い。


羽毛のように軽く、そして壊れ物のように儚い。


その身体から漂う甘い体温と酒の香りが、カシリアの理性を揺さぶる。


だが、今は感傷に浸る時ではない。


「……誰にも見られてはならない」


もし、この状態のリリスが他人の目に触れればどうなるか。


『公爵令嬢が酩酊し、自殺未遂騒ぎを起こした』


そんな醜聞が広まれば、彼女の名誉は地に落ち、二度と社交界には戻れないだろう。


それだけは避けねばならない。


カシリアは影のように慎重に足を進めた。


華やかな宴の喧騒を背に、闇に沈む校舎の裏手を縫うように歩く。


普段なら数分で着く医務室への道のりが、永遠のように長く感じられた。


腕の中で眠るリリスの重みが、次第に鉛のように両腕にのしかかる。


だが、カシリアは足を止めなかった。


彼女を守れるのは、今、世界で自分だけなのだという使命感が、疲労した筋肉を叱咤し続けた。


ようやく医務室の扉に辿り着き、中へ滑り込むと、カシリアは音を立てぬよう慎重に鍵をかけた。


幸い、夜間の医務室は無人だった。


リリスを白いシーツの上に横たえ、カシリアはようやく大きな息を吐き出した。


額から汗が滴り落ちる。


両腕が痺れて感覚がない。


だが、安息はまだ早かった。


「……傷の手当てをせねば」


手首の傷は深いが、包帯で包めば問題ない。


問題は、足だ。


裸足で硝子片を踏んだのだろう。


足の裏には無数の切り傷があり、そこからじわりと血が滲んでいる。


放置すれば感染症の危険がある。


「……やるしかないか」


カシリアは棚から消毒用アルコールと包帯を取り出した。


生まれてこの方、他人の足の手当てなどしたことはない。


常に傅かれ、世話をされる側の人間である彼にとって、それはあまりにも不釣り合いで、滑稽な行為だった。


だが不思議と、嫌悪感はなかった。


むしろ、この傷ついた少女のために何かできることが、微かな喜びですらあった。


「しみるかもしれんが……許せ」


カシリアは自嘲気味に呟き、リリスの白く華奢な足首を片手で支えた。


冷たいアルコールを浸した綿を、傷口へと押し当てる。


ビクッ。


リリスの身体が、電流を受けたように跳ねた。


「……ぁ……」


唇から、かすかな呻き声が漏れる。


だが目は覚めない。


カシリアは手を緩めず、手早く、かつ丁寧に傷口の汚れを拭い去っていく。


「ママ……痛い……」

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