第56話 永遠の眠りについた姫君
「殿下!!」
ロキナの悲鳴のような声を背に、カシリアは再び走り出した。
ロキナもまた、主人の異変を察知し、震える手で御者に公爵への伝令を命じた。
事態は、もはや子供たちの手には負えない領域へと踏み込んでいた。
学院の庭園は、死に絶えたように静まり返っていた。
宴の喧騒は遠く、ただ虫の音と、己の足音だけが鼓膜を叩く。
「リリス!どこだ、リリス!!」
叫んでも、返ってくるのは虚しい反響音だけ。
広大な闇が、カシリアの焦燥を飲み込んでいく。
彼女はどこへ消えた?
誘拐か?いや、王家主催の厳戒態勢下でそれは考えにくい。
ならば、倒れているのか?それとも――。
不吉な想像を振り払うように頭を振った時、月光を反射して煌めくものが視界の端を掠めた。
カシリアは足を止め、芝生の上に落ちているそれを拾い上げた。
「これは……」
深紅のルビーが埋め込まれた、繊細な銀細工の髪飾り。
間違いない。
リリスのものだ。
彼女は、自らの装飾品をぞんざいに扱うような女性ではない。
それがこんな場所に落ちているなど、異常事態以外の何物でもない。
数日前、路地裏で血に塗れていた彼女の姿が脳裏にフラッシュバックする。
あの時のような絶望が、再び彼女を襲っているというのか。
カシリアの視線が、地面を這うように動く。
そこには、点々と続くどす黒い染みがあった。
血か?
カシリアは膝をつき、指先でその染みを拭って鼻を近づけた。
鉄錆の臭いはない。
豊潤な葡萄の香り――ワインだ。
「ワイン……?」
リリスは酒を嗜まないはずだ。
だが、そのワインの痕跡は、まるで傷ついた獣が這いずった跡のように、庭園の奥深くへと続いていた。
そして、その先には脱ぎ捨てられた片方の靴。
まるで、何かから逃げるように。
あるいは、何かを捨てるように。
痕跡が指し示す方角。
カシリアはハッと顔を上げた。
この先にあるのは――バラ園。
かつて彼女が、誰にも見せない涙を流していた場所。
そして、彼女が最も心を許していた母との思い出の場所。
「まさか……」
背筋を悪寒が駆け抜けた。
嫌な予感が確信へと変わる。
カシリアは地面を蹴った。
先ほどまでの疲労など消し飛んでいた。
心臓が破裂しそうなほどの拍動が、彼を突き動かす。
間に合ってくれ。
頼むから、間に合ってくれ。
祈りは叫びとなり、夜気を切り裂く。
「リリスーーッ!!」
バラ園は、冷ややかな月の光に満たされていた。
咲き乱れる白薔薇と赤薔薇が、静寂の中で妖しく揺れている。
人の気配はない。
ただ、甘く重たい花の香りだけが漂っている。
「リリス!いるんだろう!?返事をしてくれ!」
カシリアは肩で息をしながら、迷路のように入り組んだ生垣の間を彷徨った。
「頼む……お願いだ……!」
王族としての矜持も、体面も、すべてかなぐり捨てて、彼はただ一人の少女の名を呼び続けた。
そして。
生垣を抜けた最奥、古びた東屋の影で、彼は息を呑んだ。
時が、凍りついた。
「……リ、リ……ス……?」
そこには、この世のものとは思えないほど美しく、そして残酷な光景があった。
月光のスポットライトを浴びて、リリスが石畳の上に横たわっていた。
深紅のドレスは花弁のように広がり、その上には散乱したワインの赤と、手首から流れた本物の鮮血が混じり合い、おぞましくも幻想的な模様を描いている。
乱れた髪は夜露に濡れ、蒼白な頬には、乾いた涙の痕がクリスタルのように光っていた。
閉ざされた瞳。
微動だにしない胸。
その姿は、毒林檎を口にして永遠の眠りについた童話の姫君のように、静謐で、完成されていた。
周囲には砕けたワイングラスの破片と、血塗られた硝子の切っ先が転がっている。
「あ……ああ……」
カシリアの喉から、言葉にならない嗚咽が漏れた。
足が震え、その場に崩れ落ちそうになるのを必死で堪え、彼は震える足取りで彼女のもとへ歩み寄った。
世界が音を失い、ただ目の前の「悲劇」だけが、圧倒的な質量を持ってカシリアにのしかかっていた。




