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第55話 食い違い

「そこの二人。……つい先ほど、リリスがどちらへ向かったか見ていないか?」


カシリアは荒い呼吸を整える間もなく、近くで談笑していた貴族たちに声をかけた。


その声音には、普段の彼からは想像もつかないほどの切迫感が滲んでいた。


突然の王太子の問いかけに、二人の貴族は驚きに目を見開いた。


「で、殿下!?ええと、リリス様でしたら……つい先ほど、青い顔をして出口の方へ急いでおられましたわ。おそらく、校門の方へ向かわれたのでは……?」


「そうか。感謝する」


礼を言うが早いか、カシリアは踵を返し、風のようにその場を去った。


残された貴族たちは、呆気にとられたようにその背中を見送る。


「ねえ、今の殿下のご様子……ただ事ではなかったわよ?」


「ええ、まるで恋人を追いかけるような……まさか、お二人の間には、私たちが知らない秘密の関係があるのではなくて?」


扇子で口元を隠し、彼女たちはひそひそと、しかし熱を帯びた声で囁き合った。


その噂の種が、どれほど深刻な事態から芽吹いたものかも知らずに。


カシリアは夜の回廊を早足で進んだ。


胸の奥で警鐘が鳴り止まない。


先ほどバルコニーで感じた微かな違和感は、今や巨大な不安となって彼の心臓を鷲掴みにしていた。


リリス。


あの誇り高く、誰よりも完璧であろうとする彼女が、挨拶もなしに会場を去るなどあり得ない。


何かが起きたのだ。


取り返しのつかない何かが。


校門へと続く石畳を踏みしめたその時、闇の中から長身の影が現れ、彼の行く手を遮った。


「おや、殿下?奇遇ですね。国王陛下がお呼びです。至急、奥の賓客室へ」


「……ッ、ビアンナか」


カシリアは舌打ちを噛み殺し、足を止めた。


月明かりの下に現れたのは、豪奢な騎士服を身に纏った女性、ビアンナ・ルビロス子爵。


貴族の令嬢でありながら、その鍛え抜かれた肉体と卓越した剣技で父王の親衛騎士にまで上り詰めた、王国の剣とも呼ぶべき傑物だ。


古銅色の肌に浮かぶ筋肉の陰影は、彼女がただの飾りではないことを雄弁に物語っている。


父王の呼び出し。


このタイミングで彼女自らが動くということは、今回のテスト結果、あるいは誘拐組織の件に関する重要事項だろう。


普段のカシリアならば、即座に王太子としての仮面を被り、義務を優先していただろう。


だが、今の彼の魂を支配しているのは、理屈でも義務でもない。


ただ一つの、焦げるような渇望だった。


「悪いが、今は急用がある。父上には後ほど、私から直接詫びを入れると伝えてくれ」


「急用?王命よりも優先すべき用件など、この国に存在す――」


ビアンナの言葉が終わるのを待たず、カシリアは彼女の横をすり抜け、再び走り出した。


「……殿下?」


ビアンナは唖然と立ち尽くし、遠ざかる主君の背中を見つめた。


あの冷徹で、常に国益を最優先に考えていた殿下が、王命を無視して走り去るなど前代未聞だ。


彼女は困惑しつつも、その異様な気配を察し、踵を返した。


まずは王へ報告せねばなるまい。


心臓が早鐘を打つ。


肺が酸素を求め、喉が焼けるように熱い。


なぜだ。


なぜリリスは来たのだ。


体調が悪いと言っていたはずだ。


それなのに無理を押してパーティーに参加し、そして誰にも告げずに消えた。


彼女らしくない。


その矛盾が、カシリアの脳内で最悪の想像を描き出す。


校門付近の馬車待機所には、タロシア家の紋章を掲げた豪奢な馬車が停まっていた。


御者台の近くで、侍女のロキナが夜風に当たりながら、主人の帰りを待っているのが見えた。


「ロキナ!」


カシリアは息を切らして駆け寄った。


「きゃっ!?……で、殿下!?そのような慌てたご様子で、一体どうされましたか?」


ロキナは目を丸くし、駆け寄ってきた王太子の乱れた姿に驚愕した。


「リリスは……リリスはどこだ!?戻っているのだろう!?」


カシリアは前置きも飛ばし、馬車の窓を乱暴に覗き込んだ。


中は、無人だった。


「え……?お嬢様をお探しなのですか?お嬢様なら、まだ会場にいらっしゃるはずですが……」


「な……!?」


カシリアの顔から血の気が引いた。


「出てきていないのか!?先ほど会場を出たという目撃情報があったのだぞ!」


「いいえ、お嬢様はまだお戻りになっていません。つい先ほど会場へ入られたばかりですし……それに、お帰りの際は必ず私を呼ばれるはずです」


ロキナの顔にも、不安の色が急速に広がっていく。


「殿下……まさか、お嬢様に何か……?」


食い違い。


貴族たちは「出て行った」と言い、侍女は「戻っていない」と言う。


つまりリリスは、会場を出たものの、帰路にはついていない。


この広大な学院の敷地内のどこかで、独り彷徨っているということだ。


あの、病み上がりの身体で。


精神を病み、死すら予感させるあの瞳をした彼女が。


「くそッ……!」


カシリアは呻き、踵を返した。


「ロキナ、お前はここで待て!私が連れ戻す!」



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