第52話 継母の懇願
「……なんて卑劣な……!」
怒りがマグマのように込み上げる。
父上は、騙されたのだ。
私の知る父上は、責任感の塊のような人だ。
もし自分の過ちだと知っていれば、必ず背負ったはずだ。
それを知らずに、母上と結婚し、私を儲け……その裏で、知らぬ間に種を蒔かれていたなど。
あまりにも残酷な裏切り。
「ええ。私は卑怯な女です」
ミカレンは否定しなかった。
「それでも私は、あの子を“運命の祝福”だと思ってしまった。だから誰にも父親のことは言いませんでした。カストにも。……彼は本当に何も知らないのです。サリス夫人を、心から愛していましたから」
胸の奥の重石が、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
父上は、二重生活を送っていたわけではなかった。
母上への愛は、嘘ではなかったのかもしれない。
だが、だからといって許されるわけではない。
結果として、この女の生み出した「歪み」が、今の私を苦しめているのだから。
「未婚で妊娠した私は家族から追放されました。わずかな金だけを渡され、平民街へ行きました。ひとりで子を育てるために」
ミカレンの告白は続く。
それは転落の物語だった。
「でも……私は何も分かっていなかった」
「金はすぐ尽き、仕事もろくに見つからず、体力仕事も続きませんでした。子育てと労働の両立は想像以上に過酷で……エリナには教育も、まともな生活も与えられなかった」
脳裏に、あの無作法なエリナの姿が浮かぶ。
手づかみで肉を喰らい、敬語も使えず、野良犬のように振る舞う少女。
あれは、教育されていないからではない。
教育を受ける機会すら奪われていた結果なのだ。
「平民街では、彼女は“父なしの子”として嘲笑され、喧嘩を繰り返し、私は謝罪と賠償に追われ……やがて“人の家庭を壊した女”という噂まで流れました」
「その地獄のような環境の中で、エリナは荒れ、粗暴な性格になっていきました」
ミカレンの声は涙で湿り、途切れ途切れになる。
「私は……ようやく理解しました。私が夢見ていた幸福は、ただの幻想だったのだと」
「すべては……かつて貴族として甘やかされて育った私の、独りよがりな妄想でした」
貴族の令嬢が、一夜の過ちで全てを失い、泥にまみれて生きる。
自業自得だ。
憐れむべき喜劇だ。
だが、なぜだろう。
その愚かさが、奇妙なほどに胸を刺す。
愛への執着。
選ばれなかった絶望。
「でも……もう、後戻りはできません」
ミカレンが顔を上げた。
その瞳は、もはや貴族の夫人のものではなかった。
子を守るためなら、泥水もすする獣の瞳。
「私は、あの子を産んでしまった」
「だから母として……私は、すべてを賭けて、あの子に“幸福”を与えるしかないのです」
次の瞬間。
鈍く、重たい音が小亭に響いた。
ゴッ、という、骨と石がぶつかる不快な音。
ミカレンは、冷たい石畳に額を打ちつけるように、深く膝を折っていた。
土下座。
プライドの高い貴族が、最も忌み嫌う屈辱的な姿勢。
しかも、自分の娘ほど年の離れた、憎き恋敵の娘に対して。




