第25話 愚か者
「やめて!離れなさい!」
甲高い叫び声が、私の意識を泥沼から引きずり上げた。
重い瞼を開けると、ファティーナが白衣の青年を睨みつけている。
「リリス様に何をするつもり!?この不届き者!」
「誤解です!私はただ脈を診ようと……!」
騒々しい。
頭が割れそうだ。
私はふらつく体を起こし、枯れた声を出した。
「……やめて、二人とも」
「リリス様!こやつが寝込みを襲おうとしていたのです!」
「違います!私はカヴィット・ミセシル。姉のカロリンに頼まれ、看病に来ただけです!」
カヴィット。
カロリン子爵の弟。
前世の記憶が蘇る。
若くして事故死した、才能ある医師の卵。
彼もまた、悲劇の系譜に連なる者なのか。
「……わかったわ。ファティーナ、下がって。彼は医師よ」
「しかし……!」
「お願い」
私の静かな命令に、ファティーナは渋々引き下がった。
けれど、私に触れた彼女が悲鳴を上げる。
「熱い!リリス様、火のようですわ!」
私の体は、解熱剤の効果など嘲笑うように、内側から燃え上がっていた。
「……症状は?」
カヴィットが真剣な眼差しで問う。
「倦怠感。呼吸困難。胸の痛み」
答えるたびに、肺が軋む。
カヴィットの顔色が、見る見るうちに青ざめていく。
「姉は……カロリンは、何か言っていましたか?」
「王室薬局へ、特効薬を取りに行くと」
「王室薬局……?」
彼は絶句し、何かに気づいたように息を呑んだ。
その沈黙が、私の病の正体を何よりも雄弁に語っていた。
ただの風邪ではない。
もっと致命的な、何か。
あの路地裏の毒か、それとも――私の罪そのものが体を蝕んでいるのか。
「……テストへ行くわ」
私は立ち上がろうとした。
「無茶です!今すぐ絶対安静が必要です!」
「公爵令嬢が、病ごときで敵前逃亡などできないわ」
それは虚勢であり、呪いだった。
完璧であらねばならない。
立ち止まれば、父に見捨てられる。
その恐怖だけが、腐りかけた私の体を動かしていた。
***
教室までの道のりは、永遠のように感じられた。
ファティーナの肩に全体重を預け、泥の中を歩くように足を引きずる。
教室に入ると、無数の視線が突き刺さった。
「リリス様!ご無事でしたか?」
好奇の目。
無責任な同情。
吐き気がする。
「ええ……薬が効いたわ。ありがとう」
私は笑顔を作った。
仮面が皮膚に食い込み、血を流しているような感覚。
「お大事になさってくださいね」
「無理は禁物ですよ」
空虚な言葉の礫が、私を打ちのめす。
「もうすぐ開始だ。席につけ」
冷徹な声が、その場を制した。
カシリア殿下。
不機嫌そうな彼の横顔を見て、私は安堵と絶望がないまぜになった息を吐いた。
また迷惑をかけてしまった。
「……申し訳ありません、殿下」
「……気にするな」
彼の声が、僅かに震えているように聞こえたのは、私の幻聴だろうか。
試験開始の鐘。
問題用紙に向かうが、文字が踊って読めない。
息ができない。
空気が薄い。
まるで、水底に沈められたようだ。
肺が酸素を求め、口を開けて喘ぐ。
けれど、吸い込めるのは熱い泥のような空気だけ。
視界の端が黒く塗りつぶされていく。
ああ、もうだめだ。
ペンが手から滑り落ちる。
糸が切れた操り人形のように、私の意識はプツリと途絶えた。
***
「……リリス?」
隣で苦しげな喘鳴が聞こえ、カシリアは顔を上げた。
彼女は、虚空を見つめたまま硬直している。
「リリス?おい、大丈夫か」
返事はない。
焦点の合わない深紫の瞳。
白蝋のように色のない唇。
嫌な予感が背筋を駆け上がる。
「リリスッ!!」
叫びと共に手を伸ばした瞬間、彼女の体が崩れ落ちた。
ガアンッ!
机に額を打ち付ける鈍い音が、静寂な教室に響き渡る。
「きゃあああああっ!」
悲鳴。
混乱。
カシリアは弾かれたように席を立ち、彼女の体を抱き起こした。
「リリス!しっかりしろ!」
ぐったりとした体は、恐ろしいほど熱かった。
内側から焼き尽くされそうな高熱。
そして何より――カシリアを戦慄させたのは、その「軽さ」だった。
腕の中にある命の重みが、あまりにも希薄で、儚い。
今にも指の間から零れ落ちてしまいそうなほどに。
「殿下、医者を……」
「待っていられるか!」
カシリアは叫んだ。
自分の冷静さが、音を立てて崩壊していくのがわかる。
ショック状態。
呼吸不全。
このままでは死ぬ。
この、美しく愚かな生き物が、自分の目の前で消えてしまう。
カシリアは彼女を抱き上げ、廊下へと走り出した。
「退け!道を空けろ!」
怒号を上げながら、彼は腕の中の少女を見下ろす。
苦悶に歪む顔。
浅い呼吸。
微かに漂う、甘く冷たい死の気配。
なぜだ。
なぜ、ここまでして完璧であろうとする?
守るべき国も、背負うべき責務もないはずの君が、なぜ命を削ってまで、その席に座り続けようとするんだ?
理解できない。
理解できないのに、胸が張り裂けそうに痛い。
「死なせない……!」
それは誰への宣言だったのか。
カシリアはただ、壊れかけた宝石を胸に抱き、祈るように走り続けた。
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