表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
228/233

第228話 愛を、売る

「服にある宝石を一部抜き出せば……例え安売りでも高く売れるわ」


悲しみを抑えきれず、震えながら口にする。


唇から発せられたその言葉は、石造りの執務室に冷たく響いた。


直前まで彼女の胃の底から全身へ駆け巡っていたはずの、金色の薬による多幸感が、この一言によって強制的に剥がれ落ちる。


「ナミス。宴が終わったら、お願いしてもいいかしら」


彼女は視線を床に置かれた木箱の中の、淡い紫色の絹へと落としたまま、静かに問うた。


ナミスは息を呑み、固く握りしめた両拳を膝の上に押し付けた。


彼にとって、それがどれほど残酷な要求であるかは明白であった。


サリス・タロシアの形見。


主君が最も大切にし、決して手放そうとはしなかった母の愛の証明。


それを解体し、闇市で売り捌く行為は、彼女の精神の根幹を自ら砕くことに他ならない。


「それは……」


ナミスは言葉を詰まらせ、栗色の瞳を揺らした。


しかし、彼が全財産を差し出すという提案をリリスが拒絶した以上、他に三百金貨という莫大な現金を残りの2週間以内に用意する手段は存在しない。


闇組織の脅迫状はすでに届いており、期日は刻一刻と迫っている。


ここで彼が情に流されれば、リリスは完全に破滅する。


「……承知いたしました」


彼の声には、主君を救えない自身の無力さに対する、激しい呪詛が込められていた。


翌日の夜。


ガーナー領の中心広場には、無数の松明が焚かれ、質素ながらも活気に満ちた宴が開催されていた。


領民たちや元兵士、そしてタロシア家から派遣された騎士たちが、配給された酒と肉を手に歓声を上げている。


そこに、領主館から歩み出たリリスが姿を現した。


彼女は、ロキナが送り届けてきた淡い紫色の絹のドレスを身に纏っていた。


銀のバラの細工が施された髪飾りが桜色の長髪を束ね、深紫のアメシストが白い首元を飾る。


ドレスの布地に金糸で縫い付けられた無数の宝石が、松明の光を反射して煌めき、彼女の周囲に神秘的な光の輪を作り出している。


広場の喧騒が、一瞬にして静まり返った。


誰もが、その圧倒的な美しさと、高貴なる存在感に息を呑み、視線を奪われた。


「それこそが、リリス様の本当のお姿だ」


騎士のザロが、杯を握りしめたまま感嘆の声を漏らす。


「このような美しいお嬢様が、泥に塗れながら、今までずっと私たちを支えてくださっていたのか……」


老いた元兵士が、涙を流しながら膝をつき、祈りの姿勢をとる。


領民たちは、彼女の神々しい姿に深く感動し、聖女への絶対的な信仰をさらに強固なものとしていく。


リリスは完璧な微笑みを浮かべ、ゆっくりと広場を進み、領民たちの労をねぎらう言葉を一つ一つ丁寧に紡いだ。


その言葉は彼らの心を打ち、更なる忠誠を誓わせた後、彼女は静かに宴の席を後にした。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



一人の部屋。


冷たい石壁に囲まれた私室に戻った私は、寝台の端に力なく腰を下ろした。


周囲には音もなく、松明の微かな光だけが窓から差し込んでいる。


私は自分の膝の上に広がる、淡い紫色の絹の布地をそっと撫でた。


指先が、金糸で縫い付けられた小さな宝石の硬い感触を捉える。


頬を伝い落ちた雫が、ドレスの布地に染み込んでいく。


呼吸が浅くなり、胸の奥が締め付けられる。


私は己の内側を観察し、強い違和感を覚えた。


やっぱおかしい。


今日は、朝に飲んだ分と合わせ、さらに追加で二錠もあの金色の薬を飲み込んだ。


普段であれば、その1錠だけで世界が極彩色に染まり、すべての不安や絶望が遮断され、圧倒的な多幸感に包まれるはず。


それなのに、今の私の心には、あの狂おしいほどの幸福感が存在しない。


せっかく毎日半錠で我慢し、耐え忍んできたというのに。


今日、あれほど大量に摂取した薬の効果が、この母の形見を解体しなければならないという現実を前にして、一瞬で完全に消え失せてしまった。


恐怖と深い悲哀が、薬の成分を完全に打ち負かしている。


部屋の扉をノックする音が、静寂を破った。


「リリス様。ナミスです」


彼の低い声が扉越しに届く。


約束の時間が来たのだ。


このドレスから宝石を抜き出し、彼に託し、闇市へと向かわせる時間。


重い扉がゆっくりと開き、ナミスが静かに室内へと足を踏み入れる。


彼の視線は、私が着ている紫のドレスと、頬を濡らす涙の跡を真っ直ぐに捉えた。


私はドレスの裾を強く握りしめ、顔を上げた。


「ごめんなさい、ナミス」


声は掠れ、微かな震えを伴っていた。


「今日はもう少し、私に母の形見と、一緒にいる時間を残してもらえないかしら」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ