第173話 依存
夜の帳が降り、ガーナー領の屋敷は深い静寂に包まれていた。
窓の外から差し込む蒼白い月光が、隣で眠るリリス様の横顔を浮かび上がらせている。
僕は、眠れなかった。
眠れるはずもなかった。
僕の腕の中で、小刻みに震えながら浅い呼吸を繰り返す彼女の存在が、あまりにも儚く、そして痛々しかったからだ。
リリス様は、まるでひび割れた薄氷のようだ。
かつて王都で見かけた彼女は、誰よりも気高く、美しく、そして強靭な精神を持った「完璧な公爵令嬢」。
それが、リリス・タロシアという存在だったはずだ。
だが今、僕の目の前にいるのは、怯えた小鳥のように身を縮め、見えない恐怖に追われる一人の少女に過ぎない。
「……ん……うぅ……」
リリス様の唇から、苦しげな呻き声が漏れる。
僕は反射的に、彼女の背中を撫でた。
骨が浮き出るほどに痩せてしまった背中。
その感触が、僕の掌を通して心臓を鷲掴みにする。
『ナミス……捨てないで……』
先ほど、彼女は泣きながらそう懇願した。
自身の身体を、最後の切り札として差し出してまで。
どれほどの絶望が、彼女をそこまで追い詰めたのだろうか。
家族に裏切られ、婚約者に見放され、居場所を奪われた果ての、魂の悲鳴。
その元凶が、あの無垢で無知なエリナ嬢と、彼女に心を奪われたカシリア殿下であるという事実に、僕の胸の内で憎悪が渦巻いた。
悪意なき残酷さこそが、最も人を深く傷つけるのだと、彼らは知る由もないだろう。
リリス様は、演じ続けてきたのだ。
愛されるために。
認められるために。
誰一人として味方のいない戦場で、たった一人、完璧な仮面を被り、必死で笑顔を作ってきた。
だが、その代償はあまりにも大きかった。
彼女の精神は今、崩壊の瀬戸際にある。
幻聴。
被害妄想。
極度の依存。
これらは全て、彼女が必死に守ろうとした世界から受けた傷痕だ。
『私は、壊れているの?』
そう問いかけた彼女の瞳の、底知れぬ虚無を思い出す。
あれは、病などという生易しいものではない。
魂が、殺されたんだ。
彼女をここまで追い込んだ全ての人間を、僕は許さない。
たとえそれが、僕が忠誠を誓った主君であろうとも。
「……ご安心ください、リリス様」
僕は彼女の耳元で、祈るように囁いた。
「僕は、ここにいます」
リリス様の呼吸が、少しずつ落ち着きを取り戻し始めた。
僕は彼女の乱れた前髪を、指先でそっと払った。
その額には、冷たい汗が滲んでいる。
このままではいけない。
僕の愛や献身だけでは、彼女の精神を蝕む病魔を追い払うことはできない。
専門的な治療が必要だ。
だが、王都の医師を呼べば、彼女の状態がカシリア殿下に知られてしまう。
そうなれば、壊れた彼女は、婚約破棄されるだろう。
それは、彼女を殺すことと同義だ。
それだけは、阻止しなければならない。
「……探さなければ」
口の堅い、そして腕の立つ医師を。
このガーナー領の近隣か、あるいは闇の世界に通じた者か。
時間はあまり残されていない。
リリス様の心が完全に砕け散ってしまう前に、僕が楔とならなければ。
「……ナミス……」
不意に、リリス様が僕の服を握りしめた。
眠りながらも、僕を求めている。
「はい。ずっと、傍にいます」
僕は彼女の手を包み込み、その甲に誓いの口づけを落とした。




