第172話 私を、愛して
拒絶される恐怖に、私は目を閉じた。
汚らわしいと罵られるか、あるいは憐れみと共に突き放されるか。
そのどちらかだと覚悟していた。
けれど、訪れたのは衝撃だった。
「――ッ!」
短い呼気が漏れる。
ナミスは私の手を取り、そのまま強く、乱暴なほどに私を引き寄せたのだ。
私の顔が彼の硬い胸板に押し付けられ、太い腕が背中に回される。
きつく、苦しいほどに締め上げられる。
肋骨が悲鳴を上げ、肺から空気が絞り出されるような圧迫感。
それは抱擁というよりも、拘束に近い強さだった。
「痛い……ナミス……痛い、わ……」
「痛みますか」
頭上から降ってくる声は、低く、震えていた。
「はい……」
「なら、それはリリス様が生きている証拠です」
彼は力を緩めようとはしなかった。
むしろ、さらに深く、私を自身の身体に埋め込もうとするかのように腕に力を込める。
骨と骨が軋み合う痛み。
けれど、不思議と不快ではなかった。
その痛みこそが、私の輪郭をはっきりと形作ってくれる気がしたからだ。
ここにいる。
私は、ここにいる。
幻聴でも、幽霊でもなく、痛みを感じる肉体を持った人間として、ナミスの腕の中に閉じ込められている。
「リリス様。……リリス様は、ここにいます」
彼の心臓の音が、私の鼓動と重なるほど近くで響いていた。
激しく、熱く。
それは言葉よりも雄弁に、彼が私を求めていることを伝えていた。
ただの性欲ではない。
もっと根源的な、魂の渇望としての執着。
私が彼を必要としているのと同じくらい、彼もまた、私を必要としているのだという事実が、痛みを伴って伝わってくる。
ようやく、ナミスの腕がわずかに緩んだ。
けれど、私を逃がしはしない。
彼は私の肩を掴み、至近距離から私の瞳を覗き込んだ。
その瞳には、暗い欲望の炎が見えたが、それを理性という鎖で厳重に縛り付けているのがわかった。
「抱いてほしいと、おっしゃいましたか」
「……ええ。私には、もうそれしか……」
「駄目です」
短い拒絶。
私の身体が強張り、絶望で冷え切りそうになった瞬間、彼は首を横に振った。
「今は、まだ早すぎます」
「早いの……? もう、手遅れなのに?」
「いいえ。リリス様の心が、病に侵されているからです」
ナミスは片手を私の頬に添えた。
その手は、先ほどの力強さとは対照的に、驚くほど優しかった。
「リリス様は今、恐怖に追われて自分を傷つけようとしているだけだ。……そんな状態でリリス様に触れれば、僕はただの獣になってしまう」
「それでもいい。獣でもいいの。ナミスなら……」
「僕が許しません」
彼は強い口調で遮った。
「僕はリリス様の騎士です。……リリス様が誇りを取り戻し、心からの笑顔を見せてくれるその日まで、僕はリリス様の清らかさを守り抜く。それが、僕の愛し方です」
清らかさ。
そんなものは、とうに失ったと思っていた。
嘘と欺瞞、放火と裏切りで塗り固められた私に、守るべき清廉さなど残っていないはずだ。
けれど、ナミスの瞳に映る私は、まるで聖女のように美しく見えた。
彼だけが、泥の中に埋もれた私の魂の欠片を、宝石のように大切に扱ってくれている。
涙が溢れた。
止まらなかった。
悲しいわけではない。
ただ、張り詰めていた糸が切れ、感情が奔流となって決壊したのだ。
「あ……うぅ……っ」
「泣かないでください」
ナミスが顔を寄せ、私の頬を伝う涙を、その唇で吸い取った。
熱い感触。
目尻に、頬に、そして震える唇の端に、彼はおずおずと、けれど慈しむように口づけを落としていく。
それは性的な行為というよりも、傷口を清める儀式のようだった。
「リリス様。……聞いてください」
彼は私の額に自分の額を押し付け、熱っぽい吐息と共に囁いた。
「リリス様の価値は、この美しい身体にあるのではありません」
「……じゃあ、なに? 私には、何があるの……?」
「リリス様の弱さも、強さも、罪も、優しさも。……その全てを含んだ、リリスという存在そのものです」
彼は私の手を、自分の胸に強く押し当てた。
「この身体が朽ちても、リリス様が老婆になっても、あるいは全てを失って乞食に身をやつしたとしても……僕にとってのリリス様の価値は、何一つ変わりません」
「嘘よ……そんなの……」
「嘘ではありません。……僕の命を賭けて、誓います」
その言葉は、甘い愛の囁きよりも重く、私の胸の空洞を満たしていった。
肉体という器ではなく、中身を愛されている。
その事実は、私が長年抱え続けてきた「完璧でなければ愛されない」という呪いを、音を立てて砕いていくようだった。
「……ナミス」
「はい」
「寒い、の……。もっと、温めて……」
行為をねだる言葉ではない。
ただ、彼の熱を求めていた。
ナミスは微かに微笑み、私を抱きかかえると、ゆっくりとベッドに横たわらせた。
そして、彼自身も靴を脱ぎ、躊躇いながらも私の隣に入り込んできた。
狭いシングルベッド。
二人の身体は密着し、逃げ場はない。
けれど、そこにはもう恐怖も不安もなかった。
彼は背後から私を抱きしめ、私の首筋に顔を埋めた。
大きく、温かい身体。
彼の心臓の音が、背中越しに伝わってくる。
「……こうして、朝まで。……ただ、傍にいます」
「うん……」
ナミスの腕が、私のお腹のあたりで組まれる。
それは強固な盾のようであり、私を世界から守る結界のようでもあった。
彼の体温が、冷え切っていた私の手足を、内臓を、そして凍りついた心を、じわりじわりと溶かしていく。
悪意ある幻聴はもう聞こえない。
聞こえるのは、ナミスの寝息と、窓の外を吹く風の音だけ。
私は彼の手の上に自分の手を重ね、指を絡ませた。
繋がっている。
ただそれだけのことが、今の私には何よりの救いだった。
「おやすみなさい、リリス様」
「おやすみ……ナミス……」
意識が闇に沈んでいく。
それはかつてのような絶望の闇ではなく、温かく、優しい安息の夜だった。
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もう一つ、似た痛みと優しさを描いた短編があります。
『壊れた風俗嬢に、「友達から」と言ってきた優しすぎる男の話
~二度壊れた私でも、もう一度笑えますか~』
壊れてしまった人間が、それでも誰かに触れていいのか。
そんな迷いと、救いの形を書いた物語です。
よろしければ、こちらも覗いてみてください。




