第171話 私を、抱いて
それからの数日間は、薄氷の上を歩くような日々だった。
日中は「聖女」として振る舞い、夜は「罪人」としてナミスの腕の中で震える。
その境界線は日に日に曖昧になり、私の精神をやすりで削り取るように磨耗させていった。
執務室でペンを走らせている最中、ふと顔を上げた瞬間に、ナミスの姿が見当たらないことがある。
ただ書類を取りに棚へ向かっただけ。
ほんの数歩、私の背後に回っただけ。
それだけのことで、心臓が早鐘を打ち、呼吸が浅くなる。
『……捨てられたのよ』
『もう愛想を尽かされたんだ』
『お前のような汚い女、誰も相手にしない』
誰もいない部屋の隅から、粘着質な嘲笑が湧き上がる。
それはカシリア殿下の声であったり、父様の声であったり、あるいはエリナの無邪気な笑い声であったりした。
「……ナミスっ!」
悲鳴のような声で彼を呼ぶ。
「ここにいます、リリス様」
すぐに彼は駆け寄り、私の肩に触れる。
その体温を感じて初めて、幻聴は波が引くように消え去り、私はまた息をすることができるようになる。
だが、安堵は一瞬だ。
すぐにまた、次の不安が黒い波となって押し寄せてくる。
いつか、この手が離れてしまうのではないか。
いつか、彼も私を見限り、光の当たる場所へ――カシリア殿下やエリナの元へ帰ってしまうのではないか。
その恐怖が、私の喉元に冷たい刃を突きつけ続けていた。
夜、寝台に横たわりながら、私は自分の手をじっと見つめた。
インクの染みは消えたが、肌はカサつき、爪も割れている。
かつて王都で称賛された「宝石のような美しさ」は見る影もない。
鏡を見るのが怖かった。
そこにはきっと、嫉妬と猜疑心に歪んだ、醜い魔女が映っているに違いないからだ。
「……ナミスは、医者を探していると言ったわ」
闇に向かって呟く。
彼は私のために、口の堅い医者を秘密裏に探してくれている。
それは優しさだ。
わかっている。
けれど、歪んだ私の心は、それを別の意味に解釈しようとする。
『厄介払いよ』
『病気のお前を、誰かに押し付けたいのね』
『壊れた玩具は、もういらないんだ』
違う。
ナミスはそんな人じゃない。
必死に否定しても、内なる声は止まない。
私は、カシリア殿下との婚約を失いかけている。
家族からも見捨てられようとしている。
私にはもう、身分も、名誉も、財産も、何もない。
ただの、放火魔の犯罪者だ。
そんな私に、ナミスを繋ぎ止める価値などあるのだろうか。
「……ないわ」
乾いた笑いが漏れた。
魅力などない。
愛される資格もない。
ならば、どうすればいい?
どうすれば、彼を私の傍に縛り付けておける?
契約? 約束? そんな言葉だけのものは、簡単に破られると知っている。
カシリア殿下との婚約がそうであったように。
もっと、確かなもの。
原始的で、逃れられない鎖。
私は自分の胸元に手を当てた。
心臓の鼓動が、早くなる。
これしか、ない。
私に残された、最後の「物」。
女として、彼に差し出せる唯一の供物。
扉が静かに開き、ナミスが入ってきた。
手には温かいミルクの入ったカップを持っている。
「リリス様、まだ起きていらっしゃいましたか」
彼はベッドサイドにカップを置き、私の額に手を当てて熱を確かめようとした。
その慣れた手つき。
介護者としての、慈愛に満ちた眼差し。
それが今は、ひどく遠くに感じられた。
私は彼の腕を掴んだ。
「……ナミス」
「はい。……また、悪い夢でも?」
「ううん。……ねえ、聞いて」
私は上半身を起こし、彼を見上げた。
薄い寝間着が肩から滑り落ち、鎖骨が露わになる。
ナミスは一瞬だけ視線を泳がせ、すぐに私の瞳を見据えた。
「どうされました」
「私は……不安なの。貴方が、どこかへ行ってしまいそうで」
「行きません。何度でも言います、僕は……」
「言葉だけじゃ、足りないの!」
私は叫ぶように遮った。
ナミスの目が驚きに見開かれる。
私は震える手で、彼の手を取り、自分の胸へと導いた。
薄い布越しに、狂ったように脈打つ心臓の音が伝わるはずだ。
「私は、何も持っていない。……ナミスに報いるものなんて、この薄汚れた身体しかない」
「リリス様、何を……」
「お願い、拒まないで。……拒まれたら、私、本当に壊れてしまう」
涙が溢れ出し、頬を伝う。
これは演技ではない。
計算でもない。
ただひたすらに、孤独への恐怖と、彼への執着が私を突き動かしていた。
カシリア殿下には、指一本触れさせたことのない身体。
公爵家の至宝として、大切に守られてきた純潔。
それを、この薄暗い部屋で、共犯者の男に捧げる。
それが今の私にできる、唯一の「契約更新」だった。
私は彼の首に腕を回し、濡れた瞳で彼を射抜いた。
「ナミス……お願い……」
「今宵一夜は、私を抱いてくれない……?」
騎士としてではなく。
従者としてでもなく。
ただの一人の男として、私という女をその身体に刻み込んでほしい。
そうすれば、明日私が狂ってしまっても、貴方の身体に残る熱だけは、嘘にはならないから。




